谷の歯
また同じ頃。
クラッスス・ジュニアはアクィーターニアに着いていた。
空気が違う。
海沿いの湿り気でもなければ、北方の硬さでもない。
土が赤く、草が濃い。
そして人の目が、よそ者を値踏みする目をしている。
「ここは油断が禁物だ」
クラッスス・ジュニアが言った。
幕僚が頷く。
「過去に副将が敗れた土地」
「敵は戦い慣れています」
「だから」
クラッスス・ジュニアは淡々と続けた。
「先に腹を整える」
「穀物の準備を整えろ」
「騎兵も整えろ」
「それと」
「近隣のガリア・プロウィンキアの部族から兵を招集する」
千夫長が言う。
「属州の兵を」
「数は盾になる」
クラッスス・ジュニアが答える。
「盾があれば、こちらの刃は伸びる」
テオトニクスは馬の手綱を引きながら、それを聞いていた。
海戦に置いていかれた鬱憤は、まだ腹の底に残っている。
だが今は口に出す場面ではない。
南は南の戦がある。
「ほな」
テオトニクスが小声で言う。
「今度は陸で派手にやれ言うことやな」
隣の百人隊長が苦笑いする。
「派手にやるな」
「生きてやれ」
テオトニクスは肩をすくめた。
生きる。
それが一番難しい。
準備が整い、軍はソティアーテース族の領地へ進んだ。
列は長い。
穀物の荷が重い。
それでも歩調は崩れない。
崩れないように作っている。
斥候が帰ってきた。
泥だらけで、声が乾いている。
「閣下」
「ソティアーテース族が大軍を集めています」
クラッスス・ジュニアが問う。
「数は」
「正確には」
斥候は首を振る。
「ただ」
「騎兵が多い」
クラッスス・ジュニアは頷いた。
驚かない。
驚けば、その驚きが列に伝染する。
「ならば来る」
クラッスス・ジュニアが言う。
「騎兵を前へ」
騎兵隊長が答える。
「はっ」
テオトニクスが自分の隊へ声を飛ばす。
「槍を落とすな」
「馬を怖がらせるな」
「叫ぶなら噛み殺して叫べ」
兵が笑いかけ、すぐ真顔になる。
笑いは油断に見える。
だが油断のない笑いは、恐れを薄める。
襲いかかってきたのは、こちらが思ったより早かった。
ソティアーテース族の主力である騎兵が先行し、行軍中の隊伍に突っ込んできた。
土煙が上がる。
蹄が地面を割る音が、槍の音より先に来る。
「騎兵だ」
誰かが叫ぶ。
「前へ出すな」
騎兵隊長が怒鳴る。
「列を作れ」
「横を取れ」
ローマの騎兵も動く。
ここで止まれば、歩兵の列が裂ける。
裂ければ荷が散り、荷が散れば腹が死ぬ。
腹が死ねば戦が死ぬ。
テオトニクスは馬上で剣を抜いた。
闘技場の剣ではない。
短い命令を作る剣だ。
「寄せるな」
「当てろ」
「馬の首を斬るな」
「腿を切れ」
敵の騎兵がこちらの側面に回ろうとする。
だが回る前に、ローマの騎兵がぶつかった。
ぶつかり方が違う。
相手は勢いで突っ込む。
こちらは勢いを揃えて押し返す。
「押せ」
「崩すな」
「一人で抜けるな」
土煙の中で刃が鳴り、叫びが上がる。
馬が倒れ、人が転び、踏まれた者が呻く。
戦場は一瞬で地獄になる。
だがローマの騎兵は強靭だった。
装備。
訓練。
そして何より、列を守る癖。
癖がある者は、乱戦でも形を残す。
敵が押し返され始めた。
押し返されると、恐れが背中に出る。
背中が出た瞬間、戦は追撃に変わる。
「逃げるぞ」
味方の声が上がる。
騎兵隊長が叫ぶ。
「追う」
「ただし散るな」
テオトニクスは笑ってしまいそうになるのを噛み殺した。
追撃。
闘技場にはない味だ。
勝っている時ほど危ない。
それも彼は経験で知り始めていた。
「追うぞ」
テオトニクスが叫ぶ。
「馬を殺すな」
「馬を止めろ」
敵の背を追って、味方の騎兵は谷間へ入っていった。
谷は狭く、左右の斜面が近い。
空が細く切られて見える。
こういう場所で、隊伍は伸びる。
伸びた隊伍は切れる。
テオトニクスが嫌な予感を覚えた。
予感は言葉になる前に喉を締める。
「待て」
彼は叫びかけた。
だが叫びは土煙に溶け、届かなかった。
次の瞬間。
斜面の影が動いた。
伏兵。
槍。
石。
そして叫び。
「上だ」
誰かが叫ぶ。
谷の両側から敵が雪崩れ込む。
逃げていた敵の騎兵が、今度は振り返って噛みついてくる。
追う側だったはずの騎兵が、挟まれる。
乱戦になった。
馬がぶつかり、馬が転び、人が折り重なる。
前も後ろも敵味方が混ざり、指揮の声が届かない。
届かない声は、恐れに変わる。
テオトニクスは歯を食いしばった。
ここで列が崩れれば、追撃が罠だったと確定する。
確定した瞬間に、死者の数が増える。
「引くな」
テオトニクスが叫ぶ。
「引いたら潰される」
「横を作れ」
「横を作って抜けろ」
だが谷は狭い。
横を作るには、誰かが血で場所を買わねばならない。
騎兵の悲鳴が一つ上がった。
次の瞬間には別の悲鳴が重なる。
土煙の中で、刃が迷子になり始める。
クラッスス・ジュニアの本隊はまだ後ろだ。
この谷の中の騎兵だけで耐えねばならない。
テオトニクスは馬の首を叩き、低く言った。
「ここで死ぬんは嫌やぞ」
そして剣を握り直した。
笑いは消えた。
今は笑っている場合ではない。
谷の歯が、こちらを噛み砕こうとしていた。




