当たり前の顔
凪が来てからは一方的だった。
風を失った帆船は、海の上で立ち尽くす。
立ち尽くしたまま、順番を待つしかない。
順番を決めるのは勇気ではなく、櫂の数と隊列だった。
ローマのガレー船が寄る。
寄って、囲む。
囲って、綱を切る必要すらない。
帆はもう死んでいる。
あとは甲板へ渡り、地上戦に持ち込み、盾と剣で片を付けるだけだった。
一隻。
また一隻。
敵船が潰れていく。
潰れるという言い方が、海では正しい。
沈む前に、まず心が潰れる。
逃げ足を奪われた船は、戦う前に負けを嗅ぐ。
「落ち着け」
「列を崩すな」
「一度に飛び移るな」
デキムスの声は変わらなかった。
勝っている時ほど、声を変えない。
変えれば熱が暴れる。
熱が暴れれば転落が増える。
海に落ちた者は、救うより先に戦列を乱す。
凪の海は静かだった。
静かな海は、残酷に音を拾う。
刃が当たる音。
盾が鳴る音。
落ちた者が水を飲む音。
その一つ一つが、甲板の木に染みていった。
朝の九時過ぎに始まった海戦は、日没には終わっていた。
終わったのは、こちらが疲れたからではない。
相手が尽きたからだ。
無事に帰れた敵船は、ほんのわずかだった。
残りは沈み、残りは奪われ、残りは海の上で折られた。
セリスィンはデキムスを見た。
自分と一回りも歳が離れていない。
若い。
若いのに、決断が古い。
古いというより、迷いがない。
迷いがない者は、若さでなく恐ろしさで測られる。
偉業を成し遂げた顔なのに、喜びがない。
驚きもない。
勝ったことが、ただ任務の終わりでしかないような顔だった。
当たり前のように任務を全うし、当たり前のように次を見ている。
セリスィンの背中に、遅れて寒気が走った。
畏怖とはこういうものか、と彼は思った。
強さを誇らない強さ。
強さを語らない強さ。
その沈黙が、人を小さくする。
船は岸へ寄せられた。
陸へ上がると足が軽い。
軽いのに、地面が揺れている気がする。
海はまだ身体の中に残っていた。
カエサルの軍と合流した。
崖の上から見ていた者たちが、今は同じ地面に立っている。
陸と海の戦が一つの勝利の匂いに混じる。
兵の顔は赤い。
疲れもあるが、それ以上に熱がある。
「よう」
カエサルがデキムスに言う
「今度から海戦は全部お前な」
冗談の形をしているが、半分は本気だ。
カエサルの冗談は、いつも半分が命令になる。
デキムスは一拍だけ困ったように眉を動かした。
それが彼の最大の感情表現だった。
「むちゃ言わんといてください」
カエサルが笑う。
周囲も笑う。
笑いは勝利の油だ。
油があると、傷は一瞬だけ痛まない。
ローマ軍は勝利に酔いしれた。
酒がなくても酔う。
生き残ったという事実だけで酔う。
敵を折ったという手応えだけで酔う。
セリスィンはその輪の外で、デキムスの横顔を見続けた。
酔わない者がいる。
酔えない者がいる。
勝利の場で酔わない者は、次の戦を見ている。
そしてセリスィンは、そっと拳を握った。
自分もいつか、当たり前の顔で勝てるようになるのだろうか。
その問いは、海の塩より苦かった。




