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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第12章 若き天才

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綱が切れた瞬間から、海の戦いは形を変えた。

船体を割れない厚い板。

高い舷。

その優位を支えていたのは風だった。

風を奪えば、高さはただの重さになる。


デキムスの命令は変わらない。

変わらないまま、周囲の動きだけが変わっていく。

同じ言葉が、違う意味を持ち始めた。


「綱を狙え」

「近づけ」

「引け」


鉤が掛かる。

櫂が唸る。

綱が鳴る。

切れる。

帆が落ちる。

そして一隻が、海の上で立ち尽くす。


動きを失った敵船に、ローマの船が寄る。

一隻ではない。

二隻。

三隻。

挟み込むように回り、逃げる角度を奪い、潮の押し戻しを味方にする。

海の上に、狭い地面が生まれた。


「寄せるな」

「寄せろ」


矛盾のような声が飛び交う。

だが矛盾ではない。

寄せる距離を間違えれば、敵の高い舷に刺される。

寄せなければ、いつまでも海の戦のままだ。


敵船の側で、帆がだらりと垂れた。

その垂れた布が、死んだ舌のように見える。

風を失った瞬間、ヴェネティの誇りが一段落ちた。


「今だ」

誰かが叫ぶ。


鉤が飛び、舷に噛みつく。

縄ではない。

鐶と鎖。

水を含んでも弱らない結びだ。

船大工の言葉が、ようやく血になる。


ローマ兵が舷を越えた。

海戦はそこから、地上戦に変わった。

甲板の上は滑る。

だが滑る床は闘技場でも同じだ。

違うのは足元ではない。

背後が海であることだけだ。


「押せ」

「盾を前に」

「列を作れ」


ローマの兵は、地面が狭くなっても列を作る。

列を作れる者が勝つ。

それは海でも同じだった。


ヴェネティの兵が必死に抵抗する。

高い舷の上での戦いに慣れている。

だが慣れは武器にもなるし、檻にもなる。

風がない今、彼らの船は彼ら自身を閉じ込めた。


セリスィンは甲板の端で、息を止めて見た。

自分は邪魔をするなと言われている。

だから見た。

見るしかない。

だが見ているだけなのに、手のひらが汗をかく。

剣の汗ではない。

勝敗が決まっていく汗だ。


一隻が落ちる。

二隻が落ちる。

帆が切れ、舷が掴まれ、兵が倒れ、海へ落ちる。

落ちた者を海は拾わない。

波が血を薄める。

薄めた血がまた板に戻る。

海は残酷に公平だった。


敵船の列が、見る見るうちに乱れていく。

乱れは連鎖する。

帆のある船が、帆のない船を避ける。

避けた角度が潮に食われる。

潮に食われた角度が、次の鉤の距離を短くする。

短くなった距離が、次の綱を切る。


敗走が始まった。

ヴェネティの船が、散り散りに逃げ始める。

逃げる方向は同じでも、速度が揃わない。

揃わない速度は、追う者にとって道になる。


兵の声が高くなる。

勝ちの匂いがすると、人は追いたくなる。


「追うぞ」

「逃がすな」


その熱を、デキムスが切った。


「無暗に追うな」


声は低い。

低いのに、甲板の熱が一段下がる。

命令は命令として通る。

通るからこそ、兵は不満を飲む。


セリスィンはその瞬間、海の匂いが変わったのを感じた。

潮の重さが、少しだけ抜ける。

波の間が、ほんの僅かに長くなる。

櫂が水を掻く音に混じるリズムが、変わる。

何日か船に乗っていて、身体が覚えた感覚だった。


セリスィンは思わず声を出した。


「凪が来る」


自分の声が、風に溶ける前にデキムスの耳へ届いた。

届いたのは偶然ではない。

デキムスは、聞くべき声だけを拾う耳を持っている。


デキムスが初めてセリスィンの方を見た。

目は冷たい。

だが刃ではない。

測る目だ。


「根拠は」

デキムスが言う。


セリスィンは唾を飲み込む。

言葉で説明できるほど整理されていない。

だが嘘ではない。


「匂いが変わりました」

「波の間が」

「……今までと違う」


デキムスは一拍だけ黙った。

黙って、海を見る。

帆の膨らみ。

雲の流れ。

水面の皺。

それらを一度に数える。


「……よし」

デキムスが言う。


「追走はしない」

「列を保て」

「静観する」


兵がざわめきかける。

追えば終わるのに。

そういう顔だ。


デキムスはその顔を切るように言った。


「勝ちを焦るな」

「海が勝ちを運ぶ」


静観。

その命令が出てから、時間は少しだけ伸びた。

逃げる敵船が遠ざかる。

帆がまだ膨らんでいるうちは、追えば追いつけない。

櫂の船がどれほど漕いでも、風の船は風で逃げる。


だがセリスィンの背中の汗は止まらない。

凪が来る前の海は、妙に息を溜める。

その息が、今まさに溜まっている。


そして。

凪が来た。


風が止まる。

止まるのが、見える。

帆が膨らまない。

帆が落ちる。

帆がただの布になる。

布になった瞬間、ヴェネティの船は動きを止めた。

潮に流されることはあっても、望む方向へ進めない。


逃げ足が、消えた。


甲板の上で、ローマ兵の呼吸が一斉に変わる。

追わずに待った意味が、今ようやく形になる。


デキムスは短く言った。


「今だ」


その一言で、船列が再び動き始めた。

櫂の音が揃う。

水が割れる。

凪の海は、櫂の船にとって平地だった。


セリスィンは胸の奥で、苦いものを飲み込んだ。

自分の感覚が当たったことへの小さな安堵。

そして、それを即座に戦に変えたデキムスの冷たさへの驚き。


海戦は、まだ終わっていない。

だが勝敗は、風の止まった瞬間に傾いた。

凪が、ローマの味方になった。


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