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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第12章 若き天才
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網を断つ

海戦は始まった。

始まった瞬間に、ローマは不利を噛まされた。


ヴェネティ族の船は、近くで見るとさらに大きかった。

舷が高い。

板が厚い。

波を受ける腹が深く、風を受ける背が高い。

海の民の船は、海そのものを味方につけていた。


ローマのガレー船は櫂で進む。

進むことには慣れている。

だが今は、進んだ先に壁がある。

壁の上から石とテラが降ってくる。


「盾を上げろ」

甲板で誰かが叫ぶ


石が木を叩く。

テラが跳ねて顔を打つ。

痛みより先に、視界が奪われる。

奪われた視界の隙間から、敵の高い舷がのぞく。


船の撞角で突く。

それがローマの馴染んだ勝ち筋だった。

だが突撃しても、びくともしない。

撞角が当たる音はある。

骨に響く硬い音だ。

しかし音がするだけで、相手の船腹は割れない。

厚い板が受け、海のうねりが衝撃を逃がしている。


「効かない」

誰かが呻く


効かないという言葉が一番危うい。

効かないと分かった瞬間、人は次の手を探して足元を崩す。


高さの差は残酷だった。

ローマが投げるテラは届かない。

届いたとしても軽くなる。

一方、敵のテラは上から落ちる。

落ちるものは軽くても重い。

盾の縁に当たって跳ね、腕を痺れさせ、列を乱す。


「鉤で掴め」

別の船から声が飛ぶ


船同士をつみかきで捕まえようとする。

だが届かない。

届いても、敵船の高い舷に弾かれる。

弾かれた鉤は海へ落ち、海はそれを返さない。


セリスィンは甲板の端で歯を食いしばった。

見て覚えろ。

その命令が背中に焼き付いている。

だが見えているのは、押されている光景ばかりだ。

押される戦いは、闘技場でも嫌いだった。


敵の船が横を擦るように通り過ぎる。

高い舷から影が落ちる。

影の中で敵が笑っているのが見えた気がした。

笑っていなくても同じだ。

ローマの側だけが必死で、相手は海の上で余裕を作っている。


陸から見ていたカエサルの軍にとっても、それは明らかだった。

崖の上。

潮の匂いを吸い込んだ兵が、眼下の海を睨む。


「無理だ」

誰かが言いかける


言いかけた言葉が喉で潰れる。

口にした瞬間、負けになると知っているからだ。


カエサルは黙っていた。

黙りながら、目だけを動かしていた。

どの船が押されているか。

どの船が回頭できないか。

どこで列が詰まり、どこで切れそうか。


「……押されているな」

幕僚が低く言う


「押されているだけだ」

カエサルが返す

「折れてはいない」


折れていない。

それは希望ではなく命令だった。


海の上。

防戦一方。

打つ手がない。


そう思った瞬間に限って、視界の端にデキムスが映る。

彼は船首寄りに立っていた。

矢もテラも届く場所だ。

なのに身を屈めない。

屈めないのではない。

屈めるべき時を選んでいる。


デキムスは敵船を見つめていた。

撞角の当たり方ではない。

舷の高さでもない。

帆柱。

帆桁。

それを結ぶ綱。

風を捕まえるための、一本一本。


そしてようやく。

デキムスの声が出た。

短く、鋭く、迷いなく。


「例のものを」


兵がすぐに動く。

甲板の下から、長い竿が引き上げられる。

長竿の先に、鋭利な鉤。

刃のような曲線が、濡れた光を返す。


セリスィンは喉が鳴った。

これだ。

これが準備していたものだ。

敵の船を壊すのではない。

海そのものを奪うための道具。


デキムスが指で示す。


「帆桁を帆柱に結ぶ綱だ」

「あれを狙え」


竿を持つ兵が頷く。

だが竿は重い。

しかも波の上だ。

一歩踏み外せば海へ落ちる。


「漕げ」

デキムスが言う

「近づけ」

「一息でやれ」


櫂が揃って水を掻く。

ガレー船の長所はここだ。

風に逆らっても進める。

潮に押されても角度を作れる。

海の船に、陸の規律を押しつけられる。


「今だ」

デキムスが言う


長竿が伸びる。

鉤が、敵船の高い舷を越える。

越えた先で見えない綱を探り当てる。

引っかかった。

竿を持つ兵の腕が一瞬止まり、次に全身で引いた。


「引け」

デキムスが言う

「漕げ」


漕ぎ手が吠える。

櫂が水を叩く。

船が前へ出る。

その前進が、綱に力をかける。


綱が鳴る。

木が鳴る。

そして。

乾いた音が一つ。

ぶつり、と切れる音。


敵船の帆桁が傾いた。

帆が風を失い、重く落ちる。

風を失った船は、海で足を失う。

高い舷も、厚い板も、風がなければただの重りになる。


「もう一本」

デキムスが言う


竿がまた伸びる。

鉤がまた食いつく。

そしてまた、櫂がそれを引きちぎる。

一隻、また一隻。

帆が落ちるたび、海の表情が変わった。

さっきまで敵の味方だった潮が、ただの水になる。


セリスィンは息を吐くのを忘れていた。

これが戦術だ。

剣では届かない場所を、工夫で折る。

相手の強さそのものを壊すのではない。

強さを支えている仕組みを壊す。


陸の崖の上でも、それが見えた。

帆の影が落ち、船の動きが鈍る。

カエサルの目が僅かに細くなる。


「……始まったな」

幕僚が言う


カエサルは頷いた。


「ようやくだ」


海の上で、デキムスはまだ顔色を変えない。

ただ次の綱を見ている。

そしてローマの船列は、防戦から少しずつ形を変え始めた。

守るための列が、折るための列へ。


風を失った敵船の上で、ヴェネティの叫びが上がった。

その叫びが、初めてローマの耳に甘く聞こえた。

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