軍船
カエサルは海を見ていた。
岬の先端に近い崖の上。
潮が満ちれば道は消え、潮が引けば浅瀬が牙になる。
陸から攻めきれない城塞を前に、彼は動かずに待っていた。
「来ないな」
幕僚が言う
「来る」
カエサルは短く返す
「来ないなら俺が困る」
崖下の波は白く砕け、風が塩を運ぶ。
兵は声を落とし、槍を立て、海を睨んでいた。
海の向こうに敵がいるのではない。
海そのものが敵の味方をしている。
その感覚が、兵の喉を乾かす。
角笛を鳴らしても届かない。
旗を振っても届かない。
海戦は陸戦よりも遠い。
遠いのに、勝敗は同じ腹に落ちる。
そのとき。
見張りが叫んだ。
「帆だ」
「いや、櫂の列だ」
水平線の端に、黒い点が生まれた。
点は増え、線になり、やがて形になる。
船。
ローマの船だ。
「来たか」
カエサルが言う
声は小さい。
だがその小ささで、周囲の息が一斉に戻る。
待つことが終わる息だ。
崖の上で旗が上がった。
赤が風に叩かれ、はためく。
「合図だ」
幕僚が言う
「届くか」
別の者が問う
「届かせろ」
カエサルが言う
「見せるだけでいい」
海の上。
ローマの船列の先頭で、セリスィンは目を細めた。
波の向こうの崖に、赤が見えたからだ。
「……崖の上にいる」
セリスィンが呟く
舵手が言う。
「陸軍だ」
「カエサルの旗だ」
甲板の兵がざわめきかけ、すぐ黙る。
黙らせる必要がない。
旗を見た瞬間、皆が同じことを思った。
決戦は近い。
デキムスは船首の近くに立っていた。
視線は崖ではなく、海の広がりへ固定されている。
見ているのは合流ではない。
敵の出る場所だ。
「速度を揃えろ」
デキムスが言う
「列を乱すな」
「崖に寄りすぎるな」
漕ぎ手の長が怒鳴り返す。
「一」
「二」
「一」
「二」
櫂が水を掻き、船腹が波を割る。
船は揺れる。
揺れるたび、胃が裏返りそうになる。
それでもセリスィンは目を逸らさなかった。
見て覚えろ。
その命令が、汗と一緒に背中に張りついている。
「……来るぞ」
船大工が言う
セリスィンが聞き返す前に、海の向こうが動いた。
黒い影が、複数。
岬の陰から現れる。
水面が割れるように、船が姿を現した。
ヴェネティ族の船だった。
数。
大きさ。
背丈。
すべてがローマのそれを圧倒していた。
船体は厚く、舷は高い。
海の民の船は海に合わせて育っている。
波に耐えるための骨が最初から違う。
「……あれに挑むのか」
誰かが言った
声が震えたのは臆病だからではない。
正しく測れたからだ。
セリスィンは固唾をのんだ。
喉が鳴る音が自分の鎧の中で響く。
闘技場の相手は一人だった。
ここでは相手が海と船と数だ。
敵船の舷は高い。
上から槍や石や矢が落ちる。
乗り移ろうとしても届かない。
船腹に衝角を当てても、厚い木が受ける。
しかも相手は帆と潮を知っている。
一方ローマはガレー船だ。
櫂で進む。
大きい船も作った。
だが基本は同じ。
風が悪ければ帆に頼れない。
波が重ければ櫂が死ぬ。
厳しい戦いになる。
直感ではなく確信に近かった。
セリスィンは隣の兵の手が震えるのを見て、思わず言う。
「震えるな」
「震えるなら槍を短く持て」
兵が頷く。
頷いたが震えは止まらない。
止まらない震えを止めるのは、言葉ではない。
最初の衝突だ。
セリスィンはデキムスを見た。
この男だけが、違う温度で立っている。
デキムスは動揺していなかった。
敵船を見つめ、まばたきの回数さえ変わらない。
恐れがないのではない。
恐れの置き場所が決まっている顔だ。
「敵は高い」
セリスィンが思わず言う
デキムスは横目もくれずに答えた。
「高いなら落とすまでだ」
それだけだった。
言葉は短い。
だがその短さが、海の広さを削った。
崖の上ではカエサルの軍が見ている。
海の上ではヴェネティの船が迫る。
潮は止まらない。
風も止まらない。
そして、ローマの船列も止まらない。
止まった方が沈む。
その単純な掟だけが、今は誰の心にも等しく刺さっていた。




