海と潮
船は動き始めた。
だが敵の海へ入るまでには時間があった。
川の水は海より素直で、素直な分だけ、兵の心に余計なことを考えさせる。
甲板は狭い。
狭い甲板に兵が詰め、櫂の列が並び、舵手が声を落として合図を確かめる。
船が揺れるたび、木の継ぎ目が小さく鳴った。
その音が、陣営の角笛より近い。
セリスィンは船縁に手を置き、指先で濡れた木を確かめた。
陸の木と違う。
水を吸い、重くなり、重いまま浮く。
この矛盾の上で戦うのだと思うと、腹の底が妙に落ち着かない。
「余計な荷は捨てろ」
デキムスが言う
「矢は乾かせ」
「弦は替えを二つ」
「鉤は刃を研げ」
「斧は柄を確かめろ」
命令は短い。
短い命令が船の中を通っていくと、皆が同じ方向へ動く。
動きが揃うほど、船は船ではなく一つの生き物になる。
漕ぎ手の長が言う。
「交代は二刻ごと」
「腕が死んだら、船が止まる」
デキムスは頷くだけだった。
頷きが許可であり、許可が命令になる。
セリスィンはその一連のやり取りを飲み込むように見た。
陸戦の準備と似ているのに、どこか違う。
似ているのは規律だ。
違うのは、規律の下にある相手が地面ではなく水だということだ。
船大工が舷の内側を叩いた。
「鎖は短くしておけ」
「長いと絡む」
兵が言う。
「短いと届きません」
船大工が首を振る。
「届かせるのは腕だ」
「縄は海に負ける」
「鎖は海に勝てる」
セリスィンは思った。
海に勝つ。
そんな言い方を、剣闘士の頃は聞いたことがない。
相手はいつも人間だった。
ここでは海そのものが敵になる。
「酔う者は先に吐け」
デキムスが言う
その一言で、甲板のあちこちから短い咳が起きた。
笑いは起きない。
海では笑いが軽すぎる。
一方。
陸ではカエサルの軍団が、予想通りの壁にぶつかっていた。
ヴェネティ族の城塞は、岬の突き出た場所に多い。
海へ突き出した岩の背に土を載せ、石を積み、そこに人と物を集める。
近づこうとすれば、海が先に拒む。
満潮時。
通路は水に沈む。
歩兵は渡れない。
渡れない間に、城塞の上から矢が降る。
干潮時。
今度は逆に浅瀬が牙になる。
船が乗り上げる危険を無視できない。
乗り上げれば動けない。
動けなければ、海と矢に殺される。
「岬が敵だな」
幕僚が言う
「岬と潮が敵だ」
カエサルが返す
「敵はその背後で笑っているだけだ」
工兵が言う。
「土木で接近できます」
「堤を築き、道を作り」
カエサルは頷いた。
否定しない。
だが次の報告がすぐにそれを腐らせた。
「敵の大型船が動きました」
「人も武器も食糧も積み」
「別の城塞へ移りました」
「また岬だ」
誰かが吐き捨てる。
同じような地勢の城塞へ移動されれば、工事は工事のまま置き去りになる。
こちらが積んだ土は、敵の移動のための時間稼ぎにしかならない。
攻めるほど、逃げ道を整えてやっているような気分にさえなる。
「これの繰り返しか」
幕僚が言う
「繰り返させるな」
カエサルが言う
「繰り返すなら、海で止める」
言葉は落ち着いていた。
落ち着いているのに、刃が入っている。
陸が届かないなら、届く道具を持って来い。
それが海戦だった。
海側の艦隊は、ついに大洋へ出た。
川が開けるとき、風の匂いが変わる。
湿った藻の匂いが薄まり、塩が刺さる。
視界が広がりすぎて、目が落ち着かない。
陸の戦では、地平は壁の役目をする。
海では壁がない。
壁がないということは、逃げ場もない。
「……広いな」
誰かが言う
その声は感嘆というより、恐れだった。
大西洋は、ただ広いだけではなかった。
潮流が激しい。
波が重い。
船が船体ごと持ち上がり、次の瞬間には落とされる。
落とされるたび、漕ぎ手の背中が一斉にうねる。
舵手の声が荒くなる。
「舵を取れ」
「風上へ寄せろ」
「流されるぞ」
セリスィンは甲板に膝をつき、吐き気を噛み殺した。
恥ではない。
海は皆を同じにする。
吐いた者が弱いのではなく、吐かせる海が強い。
デキムスは吐かない。
吐かないが、目の動きが一段速くなる。
海の上では、目が遅れると船が遅れる。
船が遅れると死が追いつく。
「櫂を揃えろ」
デキムスが言う
「波に逆らうな」
「波に刺されるな」
「波に乗れ」
漕ぎ手の長が怒鳴る。
「一」
「二」
「一」
「二」
声が揃うと、船は少しだけ落ち着いた。
落ち着いたのは海が優しくなったからではない。
こちらが海に合わせたからだ。
セリスィンは歯を食いしばりながら思う。
海に合わせる。
それは負けではない。
勝つための屈服だ。
遠くに鳥が飛び、雲が裂け、光が水面を刺した。
その光の下で、沿岸の城塞はまだ見えない。
敵の船もまだ見えない。
だが見えないことが、戦の始まりだった。
「敵は潮を知っている」
船大工が言う
「我らはこれから知る」
セリスィンが呟く
デキムスは振り返らずに言った。
「知る前に勝つ」
その言葉が終わった瞬間、波が船縁を叩いた。
水滴が甲板に散り、木がきしむ。
帆はまだ上がらない。
鉤もまだ投げない。
だが海戦は、もう始まっていた。




