見ろ、そして黙れ
「海戦の指揮官が到着した」
その報せは、冬営の空気を一段だけ乾かした。
河岸の造船場には、まだ新しい木の匂いが残っている。
水に浮いた船は、夜の間に少し馴染んだ顔になっていた。
人は慣れる。
慣れた分だけ、次の不安が形になる。
門の方から騎兵の列が入ってきた。
その先頭にいる男は、鎧の擦れる音が小さかった。
歩き方に癖がない。
癖がないのは、癖を殺してきた者の証だ。
デキムスだった。
セリスィンは息を止めかけ、すぐに吐いた。
止めた息は、余計な熱を呼ぶ。
今は熱を出せない。
クラッスス・ジュニアが前へ出る。
彼は貴族の礼を取ったが、動きは軍人のそれだった。
「来たか」
クラッスス・ジュニアが言う。
デキムスは頷くだけで返す。
目だけが周囲を撫でる。
船。
漕ぎ手。
河。
そして、兵の顔。
全部を一度に数える目だった。
クラッスス・ジュニアが、いつもの調子で言う。
「お前らなら、しょうがないな」
軽い声だった。
それでも場が少しだけ緩む。
緩めたのは油断ではない。
息を戻すための緩みだ。
だがクラッスス・ジュニアは、すぐ真顔になった。
「ただし」
「俺が作った船を、すぐ壊すな」
その言い方だけが、年相応に幼かった。
大事に積み上げたものを、乱暴に扱われたくない声だ。
デキムスが視線を返す。
声は低い。
「誰に言っている」
クラッスス・ジュニアは肩をすくめた。
「お前以外に誰がいる」
周囲の幕僚が息を飲む。
冗談の形をしているが、冗談ではない。
この二人は、刃の種類が違う。
だから噛み合う時は強いが、噛み違えれば痛い。
テオトニクスが横で小さく呟く。
「始まったな」
セリスィンは返さない。
返せるほど、喉が軽くない。
命令はすぐに落ちた。
沿岸へ向けた軍の動き。
船の整備。
漕ぎ手の点呼。
矢の束。
投槍の数。
船上で使う鉤の確認。
セリスィンとテオトニクスも、クラッスス・ジュニアの隊に従って出る準備をした。
南のアクィーターニアへ。
海ではなく、陸の戦へ。
セリスィンが剣帯を締め直していると、背後からクラッスス・ジュニアの声が来た。
「セリスィン」
呼ばれ方が軽くない。
セリスィンは立ち上がり、すぐ向き直った。
「はい」
クラッスス・ジュニアは周囲の者を一度下がらせるように目配せし、短く言った。
「お前は残れ」
セリスィンの中で、何かが一瞬だけ跳ねた。
置いていかれる感覚。
戦場から外される感覚。
それが胸の底で嫌な音を立てる。
「……残って、何を」
セリスィンが問う。
クラッスス・ジュニアは、答えを迷わない。
「デキムスの指揮を見ておけ」
「俺が閣下に頼んである」
セリスィンの視線が、思わずデキムスへ向く。
その瞬間、デキムスもこちらを見ていた。
見ていたが、表情は動かない。
動かないことで意思を示す男だ。
クラッスス・ジュニアは続けた。
「デキムスの腕は確かだ」
「海は見て覚える」
「剣闘士の戦いは、目の前だけだ」
「だが海戦は、目の前と先と横と、全部を同時に動かす」
「お前にはそれを覚えさせる」
褒め言葉に聞こえるのに、命令として冷たい。
それがクラッスス・ジュニアの教育だった。
セリスィンは喉を鳴らし、頷いた。
「命令に従います」
クラッスス・ジュニアの目が僅かに緩む。
だが慰めは言わない。
慰めは弱くなる。
彼はそれを知っている。
その横でテオトニクスが、間の抜けた声を出した。
「俺は」
クラッスス・ジュニアが振り向く。
答えは短い。
「お前は俺らと一緒だ」
「え」
テオトニクスが言いかけたところで、千夫長が彼の肩を掴んだ。
「行くぞ」
千夫長が言う。
「ちょ、待てや」
テオトニクスが抵抗しかける。
「なんで俺だけ」
「うるさい」
千夫長は容赦がない。
「戦場で口が多いと矢が集まる」
テオトニクスは引きずられるようにして連れていかれた。
振り返りざま、セリスィンにだけ聞こえるように言う。
「死ぬなよ」
セリスィンは小さく頷いた。
返事はしない。
返事をすると、胸が揺れる。
やがて人の流れが分かれる。
南へ向かう者。
海へ向かう者。
そして残る者。
残る、という言葉は軽いが、残される現実は重い。
セリスィンは造船場の端に立ち、浮かぶ船を見た。
自分の戦ではない戦が始まる。
それを目で追い、頭に入れ、次に活かせ。
そういう命令だ。
だが問題は、デキムスだった。
当分いざこざもあって、彼とまともに言葉を交わせない。
交わしたところで、噛み合うはずもない。
デキムスが近づいてきた。
足音が小さい。
だからこそ、背筋が先に反応した。
セリスィンは礼を取ろうとした。
だがデキムスは、それを止めるように短く言った。
「邪魔をするな」
それだけだった。
命令でも、忠告でも、感情でもない。
ただの線引きだ。
セリスィンは頷いた。
「……はい」
デキムスはそれ以上見ない。
船へ向かい、漕ぎ手へ視線を投げ、兵の配置を変えていく。
言葉は少ない。
少ないが、場の形が変わる。
セリスィンはその背中を見た。
戦う背中ではない。
戦いを作る背中だ。
そして自分に言い聞かせる。
今は喋るな。
見ろ。
覚えろ。
それがクラッスス・ジュニアの命令であり、ローマの次の勝ち方だった。




