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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第12章 若き天才
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海の準備と別の矢

河岸の造船場は、いつの間にか「当たり前」の景色になっていた。

最初は皆が驚き、次は疑い、最後は黙って手を動かした。

船は一隻では終わらなかった。

造った船に加えて、徴発した船も集めた。

漕ぎ手も、プロウィンキアから引き抜かれ、舵に慣れた者は金と脅しと名誉で引き寄せられた。

水夫の手は荒れ、掌は縄で裂け、血が板に染みた。

それでも艤装は進み、海戦の準備は整いつつあった。


セリスィンは岸に立ち、浮かぶ船影を数えた。

数えるたび、胸の奥の不安は形を持った。

形を持てば、ようやく殴れる。


その日。

冬営の外側がざわめいた。

角笛が短く鳴り、門番の声が一段低くなる。

来る。

皆が同じ方向を向く。

兵の背筋が、同じ瞬間に伸びる。


「閣下だ」

誰かが言った。


カエサルが到着した。

馬上の姿は遠征の土にまみれているのに、顔だけが妙に軽い。

軽いのは疲れていないからではない。

疲れを見せないことが習いになっている。

その背後に、護衛の騎兵。

伝令。

書記。

言葉と刃を運ぶ者たちが続いた。


クラッスス・ジュニアが前へ出る。

膝をつき、礼を取る。

その動きはきびきびしているが、若さの焦りがない。

冬営の間に少し背が伸びたように見えた。


「閣下」

「第七軍団、命令通りに」


カエサルは馬を下り、土を踏んだ。

地面の湿り気を確かめるように一歩置いてから、クラッスス・ジュニアの肩へ手を置く。


「よくやった」

「よく保った」

「よく作った」


その言葉は褒美ではなく確認だった。

戦場の褒美は甘いと腐る。

確認は塩辛い。

塩辛いほど、兵は生き残る。


クラッスス・ジュニアが言う。


「船は整いました」

「漕ぎ手も」

「あとは閣下の命令一つで」


周囲の幕僚が頷き、セリスィンも息を整えた。

ここからは海だ。

ここからは人質だ。

ここからは沿岸の結束を折る段だ。


だがカエサルは、河に浮かぶ船を一瞥しただけで、地図板の方へ視線を移した。

まるで船は「道具」であって「答え」ではないと言うように。


「命令を出す」

カエサルが言う


天幕の中の空気が、さらに静まる。

静まり方が違う。

聞き漏らせない静けさだ。


カエサルは指で地図の北東を叩いた。


「レーヌス河に最も近いトレーウェリー族」

「ここは危うい」

「ラビエヌスに行かせる」


カエサルが続ける。


「サビヌス」

「奴には三箇軍団を預ける」


クラッスス・ジュニアの眉が僅かに動く。

三箇軍団。

大きい。

沿岸だけではなく、周辺の気配ごと押さえにいく数だ。


「派遣先は沿岸」

「ウェネティー族」

「コリオソリータエ族」

「レクソウィー族」


セリスィンは一瞬、造船場の火が無駄になる光景を想像しかけて、すぐ打ち消した。

無駄にはならない。

閣下が命じた以上、船は必ず使われる。

ただし使う者が、ここではない。


その予感が当たった。


カエサルは地図の南西へ指を滑らせた。

山と河の向こう。

まだ「恭順」という言葉が薄い地方。


「クラッスス」

カエサルがクラッスス・ジュニアを見て言う


「軍団からコホルス十二箇」

「多数の騎兵」

「それを率いて南へ向かえ」

「アクィーターニアだ」


天幕の中の空気が、目に見えないまま揺れた。

海戦の準備を整えた。

沿岸の部族は一体となり、人質を握っている。

その真ん中に刃を差し込むと思っていた。

なのに、南へ。


テオトニクスが堪えきれずに口を開いた。

声は小さいが、刺さるように通る。


「船まで作らせといて」

「海戦は俺らやないんかい」


クラッスス・ジュニアが思わずカエサルを見る。

その視線には疑問だけでなく、確認が混じっていた。

命令の意図を、今この場で噛み砕かねばならない。


「では」

クラッスス・ジュニアが言う

「海戦は誰が」


カエサルは答えを焦らない。

焦らないことが、答えの半分になる。

彼は天幕の外、まだ落ち着かない兵のざわめきを聞きながら言った。


「もうすぐ到着する」


テオトニクスが眉をひそめる。


「もうすぐって」

「誰が来るんや」


カエサルは笑った。

笑いは軽い。

だがその軽さが、次の血の匂いを含んでいる。


「来れば分かる」

「海は、海に慣れた者にやらせる」


クラッスス・ジュニアは頷いた。

納得ではない。

受領だ。

命令は命令として受け取り、疑問は後で刃に変える。

それが軍団の呼吸だった。


セリスィンは、造った船の影を思った。

誰が来る。

誰がこれを動かす。

その答えが届くまで、こちらは南へ向かう準備をせねばならない。


カエサルは最後に言った。


「急げ」

「沿岸は動く」

「南も動く」

「同時に折らねば、ガリアはまた結ぶ」


天幕の外で、風が鳴った。

海の匂いを運ぶ風だ。

だが命令は、その風を横切って南を指していた。



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