骨組みと潮
夜の道は短いはずだった。
だが冬の闇は、距離を伸ばす。
戻る一行の足音が泥を吸い、河風が松明の火を舐めた。
セリスィンは先頭を歩き、何度も振り返った。
背後にいるのは護衛と、連れてきた船大工。
そしてテオトニクスが、その船大工の半歩後ろで、妙に黙っている。
黙っている時の方が危ない男だ。
「急げ」
セリスィンが言う
護衛の兵が答える
「はっ」
船大工が低い声で言う
「追われているのか」
「追われていないと信じたい」
セリスィンが返す
「だが信じるだけでは足りない」
テオトニクスが横から言う
「追われとったら、追う奴が先に疲れるように走ればええ」
船大工が苦笑いをした。
「海の者は走らない」
「ローマは走る」
テオトニクスが言う
「走れへんやつは、沈む」
言い方は軽い。
だがその軽さが、闇の中で妙に頼もしく聞こえた。
冬営の柵が見えた時、見張りが角笛を短く鳴らした。
門が開き、松明の光が内側から溢れる。
「誰だ」
見張りが叫ぶ
「第七軍団」
セリスィンが答える
「クラッスス・ジュニア閣下へ急用だ」
門がさらに開き、兵が道を作った。
その間を、一行が吸い込まれていく。
クラッスス・ジュニアの天幕では、まだ灯が落ちていなかった。
眠れる夜ではない。
眠れば噂に殺される。
眠れば人質に殺される。
セリスィンが天幕の前で膝をつく。
「閣下」
「船の造りに通じた者を連れてきました」
クラッスス・ジュニアが目を上げる。
疲れているのに、目だけが冴えている。
「名は」
船大工が一歩進みかけ、止まった。
言葉を飲み込む癖がある。
生き延びてきた者の癖だ。
テオトニクスが肩を叩くように言う
「名は今はいらん」
「仕事ができるかどうかだけや」
クラッスス・ジュニアはその言葉を拾い、頷いた。
「よい」
「お前が欲しいのは名ではない」
「技だ」
船大工がようやく口を開く。
「マッシリアの船を見てきた」
「川の船も、海の船も」
「だが軍艦は……」
「造れ」
クラッスス・ジュニアが言う
「閣下の命令だ」
「リゲル河に浮かべる」
船大工は一拍だけ目を伏せた。
その一拍が、覚悟の値段だった。
「条件がある」
船大工が言う
クラッスス・ジュニアが即座に返す。
「言え」
「造るには木が要る」
「鉄が要る」
「縄が要る」
「それと」
船大工は窓もない天幕の布を見上げた。
「潮を知る者が要る」
クラッスス・ジュニアが問う。
「潮」
船大工が頷く。
「大洋は川と違う」
「水が引く」
「岸が変わる」
「浅瀬が牙になる」
その言葉で、天幕の中の者たちはようやく理解した。
船を造るとは、木を組むことではない。
水を相手にすることだ。
クラッスス・ジュニアは短く命じた。
「木を伐り出せ」
「鉄工を集めろ」
「釘を打てる者を、村からでも連れて来い」
「嫌がるなら金を出せ」
「それでも嫌がるなら、働かせる」
幕僚が頷く。
「漕ぎ手はプロウィンキアから」
別の者が言う
クラッスス・ジュニアが返す。
「手配は続けろ」
「水夫と舵手もだ」
「遅れれば艦は骨だけになる」
セリスィンが言う。
「人質交換の返事は」
クラッスス・ジュニアは冷たく言った。
「保留だ」
「閣下が来るまで動かすな」
「こちらが焦れば、相手は値を吊り上げる」
テオトニクスが小さく息を吐く。
「焦るんは腹だけで十分やな」
クラッスス・ジュニアはセリスィンとテオトニクスに視線を移す。
「お前たちは明日から造船場へ付け」
「船大工の護衛だ」
「技が消えれば、艦は生まれない」
セリスィンが頷く。
「必ず守ります」
テオトニクスが続ける。
「守るのは任せとけ」
「殺す方が得意やけど」
クラッスス・ジュニアは笑わなかった。
笑う場面ではない。
だが声は柔らかかった。
「得意を使え」
「必要ならな」
翌朝。
霜が残る地面に、斧の音が落ちた。
木が倒れる音は、戦の始まりのように重い。
伐り出された材木が積まれ、鉄が叩かれ、釘が熱で赤くなる。
造船場は河岸に設けられた。
川の匂いが強い。
だが船大工は、何度も風向きを確かめた。
「この風は海の匂いを運ぶ」
船大工が言う
「潮が近い」
セリスィンは材木を見ながら問う。
「どんな船にする」
船大工は即答しない。
即答しないのは知らないからではない。
間違えれば死ぬからだ。
「高くする」
船大工が言う
「沿岸の連中の船は背が高い」
「低い舷では、上から矢が降る」
テオトニクスが眉を上げる。
「高うしたら重なる」
「重くていい」
船大工が言う
「重い方が折れにくい」
「ただし」
「漕ぎ手が要る」
セリスィンが頷く。
「徴発は進んでいる」
船大工が材木の端を指で叩く。
「縄は弱い」
「海の連中は縄を切る」
「鐶と鎖が要る」
「鉄の鎖だ」
鍛冶師が唸る。
「鎖を、船に」
「そんな真似をしたことがない」
テオトニクスが言う
「したことないからやるんや」
「ローマやろ」
鍛冶師が歯噛みし、火に鉄を突っ込んだ。
火花が散る。
火花は小さい。
だが小さい火花が集まれば、船は戦える。
セリスィンは現場の兵に声を飛ばす。
「材を運べ」
「走るな」
「滑って折れば、一本が十人の命になる」
兵が答える
「はっ」
テオトニクスは別の列を見て叫ぶ。
「おい、釘を落とすな」
「落としたら拾え」
「拾わんやつは、後で血を拾うことになる」
兵が笑いかけ、すぐ真顔に戻った。
笑いが許されるのは、手が動いている時だけだ。
昼過ぎ。
造船場に短い騒ぎが走った。
「誰かが見ている」
見張りが言う
河向こうの林に、影が二つ三つ。
動くのは速い。
狩りの動きだ。
セリスィンが即座に言う。
「追うな」
「矢を用意」
「盾を出せ」
テオトニクスが鼻で息を吐く。
「見に来たんか」
「止めに来たんか」
船大工が低く言う。
「止めに来た」
「連中は海を武器にしている」
「こっちが海を持てば、連中の自由が減る」
セリスィンが剣の柄に触れる。
軍艦はまだ骨組みだ。
だが敵はすでに、それを敵と見なしている。
クラッスス・ジュニアから伝令が来た。
「造船を止めるな」
「人質の件は保留のまま」
「こちらから手を出すな」
セリスィンは伝令に頷き、周囲に告げた。
「作業を続けろ」
「見張りは倍だ」
「槍は近くに置け」
テオトニクスが小声で言う
「戦が、木の匂いしてきたな」
セリスィンは答える。
「木は、血より先に折れる」
「折らせるな」
夕刻。
最初の船の骨が、ようやく形になった。
竜骨が地面に横たわり、肋材が立ち上がる。
それはまだ水に触れていないのに、すでに水の上の獣のように見えた。
船大工が呟く。
「骨はできた」
「次は皮だ」
セリスィンはその骨を見つめ、静かに思った。
ここから先は、剣だけでは守れない。
そして剣だけでは勝てない。
河の向こうの林が、また揺れた。
影は見えない。
だが視線は確かにある。
テオトニクスが笑う。
笑いは短い。
いつもの軽口は、まだ出てこない。
「……来るで」
セリスィンは頷いた。
「来させないようにする」
造船場の火が、夜の冷気に抗うように燃え続けた。
その火の先に、海がある。
そして海の先に、沿岸の結束がある。
次の戦は、もう陸だけのものではなかった。




