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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第12章 若き天才

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船の先生

冬営の外は、風が噂を運んでいた。

沿岸の部族がまとまったという噂。

人質を握ったという噂。

そして、ローマが河に軍艦を浮かべるつもりだという噂。


噂は火と同じで、まだ形にならないうちが一番怖い。

形になった火は殴れるが、噂は殴れない。


クラッスス・ジュニアの天幕を出ると、セリスィンは空を見上げた。

雲は低く、灰色で、腹のように重い。

その腹の下で、兵は乾いた笑いをしながら土を踏んでいる。


「軍艦、て」

テオトニクスが言う


「笑うな」

セリスィンが返す


「笑わなやってられんのや」

テオトニクスが肩をすくめる


セリスィンは言い返さなかった。

言い返す余裕がないからではない。

この男の軽口が、今は必要だと分かっているからだ。


「行くぞ」

セリスィンが言う


「どこへ」

テオトニクスが聞く


「河沿いだ」

「人が集まる場所へ行く」

「船を知ってる者は、海だけじゃない」


テオトニクスは顎を撫でた。


「川の船頭か」

「それか、商人の水夫か」

「どっちも口が軽そうやな」


「軽い口は買える」

セリスィンが言う

「重い技を持ってるかは別だ」


二人は小さな護衛を付けた。

多すぎれば威圧になる。

少なすぎれば餌になる。

クラッスス・ジュニアの言葉を、そのまま形にした数だった。


「名乗り方は」

護衛の百人隊長が言う


「第七軍団だ」

セリスィンが答える

「隠すな」

「隠した時点で怪しい」


テオトニクスが笑う。


「隠しても隠さんでも怪しい顔しとるのに」


護衛が吹き出しそうになり、堪えた。

笑いは声にならず、息になって白く出た。


河へ向かう道は、冬の泥で重かった。

道端の村は静かで、静かすぎた。

人の気配はあるのに、戸が開かない。

犬も吠えない。


「見張られてるな」

テオトニクスが言う


「見張られるのは当然だ」

セリスィンが言う

「捕らえた士官の命が、あいつらの切り札になった」

「切り札は、粗末に扱わない」


「粗末に扱うのはローマの方やろ」

テオトニクスが小さく言う


セリスィンは返事をしなかった。

返事をすると自分の心が分裂する。

今は分裂する余裕がない。


河に近づくほど、匂いが変わった。

海の匂いではない。

淡水の湿り気と、藻と、濡れた木の匂いだ。

船はそこにある。

軍艦ではないが、船の世界だ。


渡し場の近くに、人がいた。

荷を担ぐ者。

樽を転がす者。

荒縄を噛んで縛る者。

彼らの手は、剣ではなく木と水に慣れている。


テオトニクスが先に声をかけた。


「おっちゃん」

「この辺で船を造れるやつはおるか」


男が振り向き、二人の鎧を見て顔をしかめた。

鎧を見て顔をしかめるのは、敵意ではない。

用心だ。

用心は生き延びる者の礼儀だ。


「船なら誰でも造れる」

男が言う

「軍艦は知らん」


セリスィンが前へ出る。


「知らないなら」

「知ってる者を知ってるか」


男は鼻を鳴らした。


「知ってる者は海の向こうだ」

「ウェネティーだ」

「だが今、あいつらの名を出すと首が重くなる」


テオトニクスがにやりとする。


「首が重いんはええことや」

「軽い首はすぐ飛ぶ」


男が睨み、テオトニクスは肩をすくめた。


セリスィンが言葉を整える。


「こちらは戦うためじゃない」

「造るためだ」

「造れる者が要る」

「金も出す」

「保護もする」


男が笑った。

笑いは乾いていた。


「金で買えるなら」

「ローマは最初から飢えてない」


セリスィンは息を吐いた。

正論だ。

正論は交渉を遅らせる。


「……なら取引だ」

セリスィンが言う

「名を教えろ」

「名だけでいい」

「あとは俺がやる」


男は迷った。

迷いは周囲を見て増える。

周囲には見知らぬ目がいくつもある。

河の町の目だ。

噂を運ぶ目だ。


テオトニクスが声を落とす。


「言うてまえ」

「黙っとったら、次に来るんは石やで」


男が顔を上げた。


「……南の商人だ」

「マッシリアから来てる」

「船の釘の打ち方が違う」

「海の板を知ってる」


セリスィンの胸が少しだけ軽くなる。

マッシリア。

属州側の息が混じった名だ。

部族の結束より、商いの都合が勝つことがある。


「どこにいる」

セリスィンが聞く


男が顎で示した。


「奥の酒場だ」

「だが、酒場は耳が多い」


「耳は切らない」

セリスィンが言う

「口だけ借りる」


テオトニクスが笑う。


「口だけ借りるいうんも大概やな」


酒場は暖かかった。

暖かい場所には、弱い話と強い嘘が集まる。

二人が入ると、話が一段低くなった。

低くなるのは恐れでもあるが、値踏みでもある。


「探し物か」

店主が言う


「人だ」

セリスィンが答える

「船を知ってる人」


「船はここにある」

店主が肩をすくめる

「だが、軍艦なら知らん」


「軍艦を知らなくていい」

テオトニクスが言う

「軍艦になる船を知っとったらええ」


店主が眉を上げた。

言い方が乱れているのに、意味だけは刺さる。

テオトニクスの口は時々、こういう働きをする。


奥の席に、よそ者がいた。

髪の色が違う。

言葉の間が違う。

杯の持ち方が違う。


セリスィンがその席へ近づく。

剣の距離ではなく、話の距離で。


「マッシリアから来たか」

セリスィンが言う


男が顔を上げた。

目が、すぐに鎧を見た。

鎧を見て判断するのは、海の男も同じだ。


「……そうだ」

男が言う

「何の用だ」


テオトニクスが椅子を引かずに座る。

勝手に座るのは乱暴だ。

だが乱暴は、交渉では時に正直に見える。


「用は簡単や」

「船の先生になってくれ」


男が鼻で笑う。


「先生とは」

「ローマは、いつからそんな言葉を使う」


セリスィンが言う。


「軍艦を造る」

「お前の知ってる海の造りが要る」


男の目が少しだけ泳いだ。

欲が動いた目だ。

同時に恐れも動いた目だ。


「今は沿岸が荒れている」

「ウェネティーの名を出せば、俺も殺される」


「殺させない」

セリスィンが即答する

「第七軍団が守る」


男は唇を歪める。


「守ると言う者は多い」

「守れた者は少ない」


テオトニクスが言う。


「守るんは得意やない」

「せやけど、殺すんは得意や」

「お前の首が狙われたら、狙った奴の首を先に飛ばす」


店の空気が冷えた。

何人かが杯を置いた。

言葉が剣に変わる瞬間の匂いがした。


セリスィンがすぐ間に入る。


「脅しに聞こえたなら詫びる」

「だが真実だ」

「俺たちは守るために必要なことをする」


男は黙った。

黙りは拒絶ではない。

計算だ。

逃げ道と代償を数える沈黙だ。


セリスィンはさらに一歩踏み込む。


「金を出す」

「それだけじゃない」

「お前が望むなら」

「プロウィンキアへ移す」

「家族もだ」


男の瞳が揺れた。

海の男の揺れ方ではない。

家の男の揺れ方だ。


テオトニクスが小さく付け足す。


「腹も満たす」

「ここよりは確実や」


男は杯を置いた。

指が濡れた輪を作る。


「……名は」

男が言う

「今は言わん」


セリスィンが眉を寄せる。


「なぜだ」


「名は鎖になる」

男が言う

「鎖は引かれる」

「引かれると、戻れなくなる」


テオトニクスが笑う。


「戻れんようにするんが仕事やろ」


男がテオトニクスを見た。


「お前は怖くないのか」

「戻れない道を歩くのが」


テオトニクスが一拍だけ黙る。

その黙りは珍しい。

珍しいから、嘘が混じらない。


「怖いで」

「せやから笑う」


セリスィンが言う。


「来い」

「今夜のうちに冬営へ戻る」

「明日から木を切る」

「釘を集める」

「舵を作る」

「お前の知ってる通りに」


男は長く息を吐いた。

そして短く言った。


「条件がある」


「言え」

セリスィンが答える


「俺を先生と呼ぶな」

男が言う

「船大工でいい」


テオトニクスが頷く。


「ほな、船大工」

「頼むわ」


男は苦く笑い、椅子を引いた。

立ち上がる瞬間、酒場の空気が少しだけ緩む。

緩んだのは安心ではない。

次に起きることへの諦めだ。


セリスィンは背中に汗を感じた。

剣の汗ではない。

言葉の汗だ。


「急ぐぞ」

セリスィンが言う


「追っ手が出る前にな」

テオトニクスが言う


酒場を出た瞬間、風が頬を切った。

河の湿り気に、海の冷たさが混じっている。

軍艦はまだ形になっていない。

だが命令はもう、河の上に影を落としていた。

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