河に浮かぶ命令
冬営地の空気は、使者の足音が去っても緩まなかった。
穀物の袋が軽い。
人質の鎖が重い。
その二つの重さが、同じ天幕の中で同じ方向へ傾いている。
クラッスス・ジュニアは地図板に指を置いたまま、急使の帰りを待っていた。
待つ時間は短いほど長く感じる。
そしてその時。
新しい息が天幕へ転がり込んだ。
「返書です」
伝令が言う。
「ラヴェンナより」
「閣下から」
封蝋には見慣れた印。
開ける前から命令の匂いがした。
クラッスス・ジュニアは羊皮紙を広げ、数行で目を止めた。
「……軍艦を造れ」
幕僚の一人が聞き返す。
「軍艦」
「場所は」
別の者が、地図の上で指を泳がせる。
クラッスス・ジュニアは文面を読み上げた。
「大洋にそそぐリゲル河で建造すること」
天幕の中に、短い沈黙が落ちた。
驚きは声になりにくい。
声になるのはそのあとだ。
「船……なら分かります」
千夫長が言う。
「だが軍艦を」
「この土地で」
幕僚が続ける。
「造った前例があるのですか」
クラッスス・ジュニアは首を振る。
「ない」
テオトニクスが後ろで呟く。
「ないのに造れ言うんか」
「さすが閣下やな」
セリスィンは笑わなかった。
軍艦という言葉が、冬営の地面と合わない。
合わないからこそ、現実になると厄介だ。
クラッスス・ジュニアはさらに読み進めた。
「漕ぎ手はプロウィンキアから徴発」
「水夫と舵手も用意」
幕僚が顔をしかめる。
「遠い」
「この時期に人を動かせば、道で倒れます」
「倒れても動かす」
クラッスス・ジュニアは淡々と言った。
「閣下の命令だ」
伝令が付け足す。
「人質の交換についても」
「閣下が到着するまで保留で良い、と」
それを聞いた瞬間、天幕の空気が少しだけ変わった。
今すぐ決めなくていい。
それだけで、選択の刃が一息引く。
引いた刃の分だけ、別の刃が出てくるのだが。
千夫長が言う。
「保留にして、どう耐える」
「相手は沿岸でまとまっている」
クラッスス・ジュニアは答えない。
答えは紙の中にある。
軍艦を造れ。
それが答えだ。
「……着手する」
クラッスス・ジュニアは言った。
「言われた通りにやる」
幕僚たちが頷く。
頷き方は皆、重い。
軍艦を造る。
それは木を切るだけではない。
時間を削り、技を集め、恐れを押さえ込む仕事だ。
だが問題はすぐに露出した。
船なら作れる者がいる。
川舟も、荷船も、漁船も。
この地の木と釘と縄で、何とかなる。
しかし軍艦は違う。
軍艦とは、戦うための形だ。
水の上で秩序を保ち、衝突に耐え、矢や投槍を受ける骨が要る。
その骨を知っている者が、この冬営にはいない。
「誰が設計する」
幕僚が言う。
「誰が指図する」
千夫長が言う。
「誰が造った経験がある」
答えが出ない。
「ローマから呼ぶか」
誰かが言いかける。
「遠すぎる」
すぐ別の声が潰す。
「もう一つの冬営地に頼るか」
別の者が言う。
「忍びない」
「向こうも余裕はない」
「それに、今は動かせば噂になる」
では近隣の部族はどうか。
その案が口に上りかけて、すぐ落ちた。
近くの部族は今や殺気立っている。
穀物を求めに行けば捕らえられた。
技術者を求めに行けば、もっと早く首を落とされる。
天幕の中に、打つ手のない沈黙が戻る。
沈黙は最初は冷たい。
長くなると腐る。
クラッスス・ジュニアは地図板の端を指でなぞった。
リゲル河。
大洋へ注ぐ大きな流れ。
そこに軍艦を浮かべろという。
彼はゆっくり顔を上げ、セリスィンとテオトニクスを見た。
二人の目は違う。
セリスィンは前を見ている目だ。
テオトニクスは周りを見ている目だ。
前と周り。
戦場で必要な二つだ。
クラッスス・ジュニアは言った。
「お前たちに任務を与える」
セリスィンが答える。
「命令を」
テオトニクスが続ける。
「また面倒なんやろ」
クラッスス・ジュニアは笑わなかった。
笑うと軽くなる。
軽くなった命令は、死人を増やす。
「軍艦を造る」
「そのために、精通した者が要る」
「だが、こちらにいない」
セリスィンが即座に問う。
「探せと」
「そうだ」
クラッスス・ジュニアは頷く。
「近くにいるはずだ」
「海に近い部族は、船を知っている」
「だが今、表立って頼めない」
テオトニクスが舌打ちする。
「頼めへん相手から技だけ抜け言うんか」
クラッスス・ジュニアは静かに言った。
「抜くのではない」
「連れて来い」
「話が通じる者を、金でも恩でも恐れでもいい」
「こっちの側へ引き寄せろ」
セリスィンの喉が小さく鳴った。
剣で解けない仕事が来た。
こういう時、テオトニクスの軽口が必要になる。
必要だと分かっていても、頼りたくはない。
テオトニクスが肩をすくめる。
「ほな、俺らで“船の先生”探しやな」
クラッスス・ジュニアは頷いた。
「急げ」
「閣下が来るまでに骨を作る」
「骨ができれば、肉は付く」
セリスィンは立ち上がり、短く答えた。
「必ず見つけます」
テオトニクスが口を尖らせる。
「見つけるだけならええけどな」
「連れて帰るんが面倒そうや」
クラッスス・ジュニアは二人に背を向け、最後に言った。
「面倒を片付けるために百人隊長がいる」
外へ出ると、冬営の空気が頬に刺さった。
遠くの海の匂いが混じる風。
その風の先で、沿岸の部族が一つになっている。
セリスィンは剣の柄に触れた。
軍艦を造るために、まず剣を抜く仕事が来る。
そんな気がした。




