冬営の腹
ルッカ会談から時をさかのぼること二、三か月。
アンデース族の地に置かれた第七軍団の冬営地は、表向きは静かだった。
柵は整い、見張りは回り、夜の角笛も規則正しい。
だが静かな冬営ほど、腹の音がよく響く。
「配給が減っている」
千夫長の一人が言った。
クラッスス・ジュニアは地図板から目を上げる。
「減らしたのではない」
「足りないのだ」
セリスィンは焚き火の向こうで黙っていた。
乾パンの欠片を指で割る音が、やけに大きく聞こえる。
テオトニクスが低く笑う。
「敵がおらんのに腹で死ぬんは、さすがに嫌やな」
セリスィンが短く返す。
「笑ってる場合か」
「笑わんと腹が余計減る」
テオトニクスは肩をすくめる。
冬営において食糧は何に勝らず重要だった。
恭順を誓ったばかりのガリア西部の部族から、穀物を買い集めるのは危うい。
銭で買えば従うように見えて、銭で買った分だけ恨みが残る。
だが足りないなら話は別だ。
飢えは規律を腐らせ、腐った規律は敵より早く軍を殺す。
クラッスス・ジュニアは幕僚を見回した。
「派遣する」
「近隣の部族へ穀物を求める」
「ただし、深入りはするな」
千夫長が頷く。
「誰を」
クラッスス・ジュニアは即答した。
「ティトゥス・テラシディウスをエスウィー族へ」
「マルクス・トレビウス・ガルスをコリオソリータエ族へ」
「クィントゥス・ウェラニウスはティトゥス・シーリウスと共に、ウェネティー族へ」
セリスィンが口を挟む。
「護衛は」
「付ける」
クラッスス・ジュニアは短く言う。
「だが多すぎるな」
「多すぎれば脅しに見える」
「少なすぎれば侮りに見える」
テオトニクスが顎を掻く。
「ほんま、難儀な商いみたいやな」
クラッスス・ジュニアは笑わない。
だが声は硬くならない。
「冬営は商いだ」
「剣を抜かずに勝つ場所だ」
その言葉に、セリスィンは胸の奥が少しだけ冷えた。
剣闘士の頃、勝ちは血の量で測れた。
今は、穀物の袋で勝ち負けが変わる。
派遣から数日。
冬の空は同じ色のまま、ただ風向きだけが変わった。
伝令が走り込んでくる。
息が乱れ、目が泳いでいた。
「閣下」
「ウェラニウスとシーリウスが……ウェネティー族に捕らえられました」
火の爆ぜる音が一つ鳴った。
それ以外は静まる。
クラッスス・ジュニアが問う。
「理由は」
伝令が喉を鳴らす。
「人質の返還を求めているようです」
「ローマに渡した人質と引き換えに」
テオトニクスが低く言う。
「人質交換やて」
「腹より厄介やな」
セリスィンが口を開く。
「恭順が嘘だったのか」
クラッスス・ジュニアは首を振らない。
振れば断定になる。
断定は次の判断を狭くする。
「嘘かどうかは後でいい」
「今は、捕らえられたという事実がある」
幕僚が言う。
「すぐ救出を」
クラッスス・ジュニアは手を上げて止める。
「待て」
「沿岸の部族は海で繋がっている」
「ここで軽々に動けば、他も動く」
その言葉が終わる前に、次の伝令が来た。
悪い知らせは歩調を揃える。
「閣下」
「エスウィー族も動きました」
「テラシディウスが捕らえられたと」
さらに間を置かず、もう一つ。
「コリオソリータエ族もです」
「トレビウス・ガルスが捕らえられました」
焚き火の熱が、一段冷たく感じられた。
捕縛が点ではない。
線になっている。
線はすぐ面になる。
テオトニクスが舌打ちする。
「連鎖やな」
「噂が火ぃつけよった」
セリスィンがクラッスス・ジュニアを見る。
若い貴族の目は揺れていない。
だが揺れていない分だけ、決断が遅れれば折れる。
「閣下」
セリスィンは言った。
「相手は、まとまってきています」
クラッスス・ジュニアは頷く。
「分かっている」
幕僚が声を落とす。
「沿岸の部族が一体になれば」
「内陸の冬営からは手が届きません」
クラッスス・ジュニアは地図板の海岸線に指を置く。
ウェネティー。
エスウィー。
コリオソリータエ。
点が繋がり、線になり、今は刃の縁になりつつある。
「狙いは明白だ」
クラッスス・ジュニアが言う。
「人質だ」
「人質を返せば、こちらの権威が抜ける」
「返さねば、こちらの士官が死ぬ」
テオトニクスが吐息を漏らす。
「どっちも嫌やな」
セリスィンが言う。
「人質は、ただの鎖じゃない」
「ローマが来た証だ」
クラッスス・ジュニアはその言葉を受け、短く言った。
「だからこそ、試される」
そして案の定だった。
沿岸の部族が一体となり、使者が冬営へ現れた。
彼らの衣は厚く、言葉は薄い。
薄い言葉の裏に、怒りと恐れが詰まっている。
使者が言う。
「ローマは人質を返せ」
「返せば、お前たちの者を返す」
「返さねば、自由を求める我らの結束は折れぬ」
クラッスス・ジュニアは立ち上がらない。
座ったまま、相手を見上げる形にしない。
見上げれば、冬営の地面が負けになる。
「自由を求めると言うなら」
クラッスス・ジュニアは静かに言った。
「なぜ最初に人質を差し出した」
使者の顔が硬くなる。
硬くなるのは、答えがないからではない。
答えが一つしかないからだ。
「力に屈した」
クラッスス・ジュニアは頷く。
「では今も同じだ」
使者が唾を飲み込む。
その唾の音の向こうに、海の部族が一つにまとまった気配があった。
セリスィンはその場で思う。
これは穀物の不足から始まった。
だが今、腹の問題はもう枝だ。
幹は人質。
根は支配。
テオトニクスが、低い声でセリスィンに言う。
「来たな」
「厄介ごとや」
セリスィンは頷いた。
「ガリアは、まだ終わってない」
クラッスス・ジュニアは使者を見据えたまま、幕僚にだけ聞こえる声で言った。
「急使を出せ」
「カエサルに知らせる」




