ルッカの門前
ラヴェンナを後にしたカエサルとクラッススは、エミリア街道を北西へ取った。
舗装された道はまっすぐで、まっすぐであるがゆえに逃げ場がない。
馬蹄の音が揃うほど、道は人を急かす。
「モデナまでは早い」
クラッススが言う。
「基地として作られた街は、道も癖がない」
カエサルが返す。
「癖がないのは、金がかかった証拠だ」
クラッススは小さく笑う。
「金は嘘をつかん」
「つく」
カエサルが即座に言う。
「だが嘘のつき方が上手い」
二人の間に、乾いた沈黙が落ちる。
沈黙が続くのは、仲が悪いからではない。
互いに言葉を選ぶ必要があるからだ。
選んだ言葉が、そのまま次の年の形になる。
モデナの街を過ぎると、地形が変わった。
平地の直線が終わり、起伏が始まる。
アペンニーニの背が見え、空が少し狭くなる。
谷の風の匂いではない。
ここは道が生きている山だ。
「越えるぞ」
カエサルが言う。
「越えるのは慣れている」
クラッススが返す。
「問題は、越えた先だ」
山脈を南へ越えた先に待っていたのがルッカだった。
アルノ河の少し北。
フィレンツェからピサを通り、ティレニア海へ注ぐあの河の近くにある。
ローマの境は、海のこちら側では線になる。
アドリア側はルビコン川。
ティレニア側はアルノ河。
その線の外側。
ルッカは属州側に入った。
だからこそ、都合がよかった。
近いのに、内側ではない。
ローマの目が届くのに、ローマの法の手が一拍遅れる。
紀元前五十六年、四月。
この時期を選んだ理由はすでに決まっていた。
「ポンペイウスがサルディニアへ行く」
カエサルが言う。
「食糧輸入先の視察だ」
クラッススが続ける。
「ローマからも行きやすい」
「港町だ」
「ここなら集まりやすい」
カエサルが淡々と結論を置いた。
「集まりやすい、という言葉が恐ろしいな」
クラッススが小さく言った。
「恐ろしいと思うなら、やるべきだ」
カエサルの返事は軽い。
軽いまま、刃が入っている。
ルッカの街は、すでに騒がしかった。
市場の声ではない。
選挙の声でもない。
もっと硬い、政治の集まる音だ。
四年前。
紀元前六十年のときの会談は、秘密裡だった。
三人だけが同じ火を囲み、ローマの形を指でこねた。
だが今回は違う。
隠せないほど大きくなった。
隠す必要がないほど、皆がそれに賭け始めた。
「リクトルが多いな」
クラッススが言う。
「百二十」
カエサルが即答する。
クラッススが目を細める。
「数まで見たか」
「数は好きだろう」
カエサルは笑う。
「嫌いではない」
クラッススが返す。
「だが数が多いと、事故も増える」
「事故は起きた方がいい時もある」
カエサルはそう言って、街の入口へ馬を進めた。
元老院議員だけでも二百。
それに随員、護衛、使者、請願者。
人が人を呼び、利が利を呼ぶ。
ルッカは一時の都になっていた。
門をくぐった瞬間、視線が刺さる。
刺さる視線の種類が多い。
迎合。
冷やかし。
探り。
そして、恐れ。
「おお、ガリア総督長のお出ましだ」
誰かが声を上げた。
「勝った男は良い顔をしている」
別の者が続ける。
「十五日の感謝祭を受けた将軍殿だぞ」
と、皮肉にも聞こえる言い方が飛ぶ。
政治のもつれを抜けば、誰もが彼の功績を認めていた。
敵対している元老院でさえ、ガリアの勝利には感謝祭を捧げた。
勝利は、憎しみより一段上に置かれる。
少なくとも表向きは。
カエサルは笑って手を挙げた。
群衆の声へ応えるのは、彼の得意だ。
だが返し方が上手いほど、相手の胃の中に入っていく。
「諸君、歓迎を」
「だが今日は酒ではなく、仕事のために来た」
「仕事だとさ」
「世界を忙しくする仕事だ」
ざわめきが渦になる。
渦の中心を、カエサルは平然と通った。
クラッススはその背中を見ながら、ひとつだけ思う。
この男は、喝采を矢のように受けても歩幅が変わらない。
金の重さで歩幅が変わる自分とは違う。
そこへ、さらに空気が変わった。
人が割れる。
礼の形が生まれる。
ポンペイウスが姿を現した。
護衛の数より先に、周囲の呼吸が整う。
愛される男は、歩くだけで場を整える。
ポンペイウスはカエサルへ近づき、口を開いた。
「久しぶりだな」
「秋以来か」
カエサルは即座に返す。
「そうだな」
「秋以来だ」
クラッススが眉を上げた。
「……なんだ」
「すでに会っていたのか」
カエサルは一拍だけ間を置いた。
その間が、答えより多くを語る。
「まあ」
「ちょっとな」
クラッススはそれ以上追わなかった。
追えば、言葉が証拠になる。
ガリア総督がルビコンを渡ってローマへ入ってはならない。
それは掟だ。
掟は破った瞬間より、掟が破られたと噂された瞬間に人を殺す。
ポンペイウスと秘密裡に会っていたのなら、黙っておくのが吉だった。
ポンペイウスはクラッススにも視線を移した。
「クラッスス」
「来たか」
「呼ばれたからな」
クラッススは答える。
「呼ぶなら払ってもらう」
ポンペイウスが口元を緩める。
「払うのはいつもお前だろう」
クラッススは笑わない。
笑えば負けた気がする。
その代わり、ため息で返した。
カエサルが両者を見比べ、軽く手を叩くように言った。
「さて」
「始めるか」
ポンペイウスが頷く。
クラッススも頷く。
頷き方が三者三様だった。
ルッカの空は春の色をしている。
だが街の中では、もっと重い季節が動いていた。
歴史が開かれる会談が、間もなく始まろうとしていた。




