ラヴェンナの湯気
ラヴェンナはアドリア海に面した穏やかな町だった。
潮の匂いは強すぎず、風は刺さりすぎず、港町の息が浅く長く続いている。
戦の匂いではなく、商いと湿り気の匂いがした。
クラッススは街に入ると、指定された場所へ向かった。
石の床はよく磨かれ、入口の見張りは少ない。
少ないのに、目が利いている。
見張りの視線が動いた瞬間、奥の扉が開いた。
中には一人の男がいた。
悠然と腰を下ろし、香草を浮かべた湯を啜っている。
この穏やかな町に似つかわしくない男だった。
穏やかさを踏み台にするために、ここへ座っているような男だった。
カエサルはクラッススに気づくと、杯を置いて立った。
歩み寄る速度に迷いがない。
距離を詰めるのが、戦場と同じくらい自然だった。
「久しぶりだな」
「ああ、久しぶりだ」
握手は短い。
視線だけが長い。
互いの顔の皺より、互いの背後を見ている目だった。
クラッススが椅子に腰を下ろし、すぐ切り出した。
「そろそろ金を返す話か」
カエサルは笑った。
笑いは軽いのに、言葉は軽くならない。
「いや」
「金はもっと要る」
クラッススの口元が引きつった。
怒ったようにも、呆れたようにも見える。
「借りを増やすのが趣味になったか」
「趣味ではない」
カエサルは湯を一口啜る。
「必要だ」
「必要は趣味より強い」
クラッススはため息をつき、指で机を二度叩いた。
叩く音は弱い。
だが弱い音ほど、勘定の耳にはよく響く。
「必要という言葉は便利だな」
「誰の必要だ」
「俺のだ」
カエサルは即答した。
「そして、お前のでもある」
クラッススは笑わない。
笑えば認めたことになる。
認めれば次の要求が増える。
代わりに話をずらした。
ずらし方が自然なのは、彼が政治の空気で生きているからだ。
「息子の話は入っているか」
カエサルは頷いた。
「活躍している」
「よくやっている」
クラッススの眉がわずかに緩む。
だが安心は長く続かない。
カエサルは続けた。
「最近は少し面倒なことに巻き込まれているようだ」
クラッススの視線が鋭くなる。
「面倒とは何だ」
「人質の件だ」
カエサルは湯気の向こうで言った。
「剣で解けない結び目がある」
「あいつは剣で結び目を切りたがる」
クラッススは口を閉じた。
父としての顔が出かけて、すぐ金の顔に戻る。
ここは会談の場で、泣き言の場ではない。
カエサルは話題をさらに広くする。
広くして、相手の呼吸を自分の呼吸に合わせていく。
「元老院も忙しないな」
「俺らを目の敵にしすぎだ」
クラッススが言う。
「もうそこまで情報が入っているのか」
カエサルは肩をすくめた。
「優秀な情報屋がいるんでね」
言い方は軽い。
だが意味は軽くない。
戦場からローマへ届くのは勝報だけではない。
噂も、企みも、票の流れも届く。
クラッススは机の上の杯に指を添えた。
飲まない。
飲めば喉が緩む。
緩めた喉から余計な言葉が出るのを恐れている。
「それで」
クラッススが言う。
「今度はどこへ行く」
「しばらくここで息をつく」
カエサルは窓の外を見た。
「それからルッカだ」
クラッススはすぐ察した。
「ポンペイウスか」
カエサルの笑みが深くなる。
「話が早い」
「食糧長官になった」
「サルディニアへ視察に行くらしい」
「その港としてはピサが近い」
「ルッカが都合がいい」
クラッススは短く息を吐いた。
「都合がいいという言葉も便利だな」
「誰にとってだ」
「俺たちにとってだ」
カエサルは平然と言う。
クラッススは少し沈黙してから、ようやく真正面に戻った。
逃げ道のある問いを捨て、刃のある問いを出す。
「そろそろ本題に移ろうか」
「三頭を集まらせて何をするつもりだ」
カエサルはまた笑った。
今度の笑いは、湯気より熱い。
目が笑っていない。
笑いが先に立って、相手の警戒を一瞬遅らせる笑いだ。
「準備さ」
「何の準備だ」
クラッススが追う。
カエサルは即答しない。
一拍置く。
置いた一拍で、この部屋の空気が彼のものになる。
「これからローマと世界を取りに行くための準備さ」
クラッススは瞬きを一つだけした。
その一つが、計算の始まりだった。
数で測れない男が、数を要ると言っている。
それが最も高くつく。
「……世界とは大きく出たな」
クラッススがようやく言った。
カエサルは湯を啜り、穏やかな町の穏やかさを借りて答えた。
「大きい方が安い」
「小さく刻めば、血が増える」
窓の外では、ラヴェンナの潮が静かに満ち引きしていた。
その静けさの中で、三人の男の歯車が噛み合い始めていた。




