表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第11章 三人の大賢人
130/177

勘定の神

ローマの朝は音から始まる。


噴水の落ちる水音。

石畳を打つ車輪の響き。

パン屋の竈から立つ焦げた小麦の匂い。

通りではすでに誰かが怒鳴っていて、誰かが笑っている。

いつものローマだ。

いつも通りで、いつも通り危険だ。


マルクス・リキニウス・クラッススは、その「いつも通り」を嫌った。

嫌いというより、怖かった。

人は慣れた顔で牙をむく。

昨日まで味方だった者が、今日から敵になる。

それを何度も見てきた。


彼の執務室は静かだった。

静かにしないと数字が逃げる。


机の上には蝋板が並び、書記が二人、肩を寄せて計算をしている。

債権の一覧。

貸付先の名。

担保の土地。

期限。

利率。

誰がどの元老院議員の縁者で、誰がどの騎士階級と結びついているか。

数字の横には必ず人間関係が付いている。


「この件は……」

書記の一人が控えめに言いかけた。


クラッススは手を上げて止めた。

声に力はない。

止めるというより、頼むような仕草だった。


「先に、その数字を見せてくれ」


書記が蝋板を差し出す。

クラッススは受け取らず、机の上で読んだ。

眉がほんの少しだけ動く。

そこだけが彼の感情の露出だった。


「利率が違う」

「こっちの契約は八分ではなく十だ」

「条項の二行目」


書記が目を丸くする。

「失礼しました」

そう言って蝋板を引き寄せ、慌てて書き直した。


クラッススは蝋板を一枚、指の腹で叩いた。


「次」

「担保だ」

「港湾税の収入は確かに甘いが、争いが起きれば最初に消える」

「担保としては弱い」

「代わりに、彼の姉の嫁ぎ先の葡萄畑を取れ」

「あれは逃げない」


書記が唾を飲み込む音がした。


クラッススはその反応に気づいていたが、見ないふりをした。

恐れられるのは、正直、居心地が悪い。

だが恐れられなければ金は動かない。

金が動かなければローマの政治は動かない。

この都市の仕組みはそうできている。


扉の外で足音が止まった。

衛兵が低い声で告げる。


「クラッスス様」

「来客です」

「ガビニウス家の者と、もう一人……ポンペイウス様の使いのようです」


クラッススの指先が一瞬止まった。

頼りなげな沈黙。

書記が顔色をうかがう。


「どうしましょう」


クラッススは肩をすくめた。

とても小さく。


「通せ」


声は弱いのに、室内の空気が少しだけ締まった。

弱い声で命令する者が一番厄介だと知っている人間だけが、その変化を感じる。


使者が入ってきた。

丁寧な礼。

丁寧すぎる礼は、たいてい何かを隠している。


「クラッスス閣下」

「ポンペイウス閣下より――」


「ポンペイウス、か」


名を口にするだけで、クラッススは少し疲れたように見えた。

あの男は戦で勝ち、民衆に愛される。

クラッススは戦で勝っても愛されない。

金の匂いは英雄譚より先に鼻につく。


使者は巻紙を差し出した。

封は丁寧で、蝋が硬い。

クラッススは受け取ると、封を割らずに机の上に置いた。

開けるのが怖いわけではない。

むしろ怖いのは開けた後だ。

書かれている要求。

こちらが払う代償。

払う代償のあとに残るもの。


「要点だけ言え」


使者が一瞬ためらい、言葉を選ぶ。


「穀物の件です」

「市中が荒れています」

「閣下の名が……人々の口に出ています」

「助力を、と」


クラッススは、鼻で笑うべきところで笑わなかった。

笑うと軽く見られる。

軽く見られると次の要求が増える。


「穀物はポンペイウスがやればよい」

「得意だろう」

「名声を集めるのは」


使者が気まずそうに視線を落とす。

その横で、ガビニウス家の者が咳払いをした。


「閣下」

「選挙の見通しについても……」


クラッススの視線が、初めて鋭くなる。

数字を読むときの目だ。


「誰が、どこで、いくら要る」


ガビニウス家の者は、そこでようやく言葉が出たように話し始めた。

票の束。

部族。

街区。

動員できる人間の顔ぶれ。

裏切りそうな顔ぶれ。

必要な金額。


クラッススは途中で遮った。


「多い」


「しかし閣下、相手も――」


「相手も多いからと言って、こちらも無駄にしていい理由にはならない」


淡々とした口調だった。

論破ではない。

会計報告の口調だ。


「金は水だ」

「流すなら狭い溝に流せ」

「広い地面に撒けば蒸発する」


ガビニウス家の者が黙った。


クラッススは机の端の蝋板を一枚引き寄せ、数字を三つ書いた。

筆跡はきれいではない。

だが迷いがない。


「この三つで十分だ」

「残りは借りで動かせ」

「借りを作るなら、必ず返せる相手に作れ」

「返せない相手に借りを作るのは、敵を増やすのと同じだ」


言い終えたあと、自分の声が少し強すぎたことに気づいたのか、クラッススは咳払いをした。

頼りなげな仕草に戻る。

同じ口から刃物のような数字と、弱気の息が出る。

人間は不思議だ。


そのとき、また扉が叩かれた。

今度は内側からでも分かるほど急いでいる音だった。


衛兵が顔を出す。


「閣下」

「北からの急使です」

「ラヴェンナ方面――」


クラッススの眉が上がる。

ほんの少し。

だがそれが室内の全員に伝わった。


「入れ」


急使は泥をまとっていた。

靴だけでなく、言葉まで泥にまみれているような息の荒さで巻紙を差し出す。


「カエサル閣下より」

「至急」


その名前だけで、クラッススの胸の奥がざわついた。

あの男は遠くにいるのに、いつもこちらの空気を変える。

戦場から送り込まれるのは勝利の報告だけではない。

必要な金。

必要な法律。

必要な人間。

必要な時間。


クラッススは封を割った。

蝋が割れる音が小さく響く。


文面は短い。

余計な修辞がない。

読む者に選択を与えない書き方だ。


「……ラヴェンナで会う」

「今すぐ来い」


クラッススは一度、紙から目を離し、部屋の隅を見た。

何かを探しているようで、実は何も見ていない。

頼りない、と人は言うだろう。

だがこの頼りなさは恐れの形をしていた。

恐れの正体は分かっている。

カエサルの勢い。

ポンペイウスの誇り。

自分の居場所。

三つ巴の綱引きで、綱が切れる瞬間の音。


書記が恐る恐る言う。


「閣下……?」


クラッススは頷いた。


「旅の準備を」


ガビニウス家の者が慌てて言う。


「では選挙の件は――」


クラッススは視線を上げた。

優しい目ではない。

だが冷たくもない。

金を扱う者の目だ。


「必要な金は出す」

「ただし、今言った溝以外には流すな」

「それと、ポンペイウスにはこう返せ」


彼は机の上の蝋板に短い文を書いた。

署名まで一息だった。


「穀物は助ける」

「だが名声は彼が取れ」


使者が受け取って退出する。

扉が閉まると、部屋に残ったのは紙と数字と、旅の気配だけになった。


クラッススは立ち上がった。

立ち上がる動作が遅い。

老いではない。

躊躇だ。

躊躇を見せれば弱く見える。

弱く見えれば次の要求が増える。

分かっているのに、身体が先に躊躇する。


それでも歩き出した。

数字の神は戦の神ほど派手ではない。

だが神は神だ。

必要とされるところへ行く。


窓の外にローマが見えた。

今日もいつも通り音を立てている。


「ラヴェンナ、か」


独り言にしては少し重い声だった。


誰も答えない。

その沈黙が次の章の入口になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ