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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第11章 三人の大賢人
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水面下の楔

元老院の反撃は、形だけ見れば穏やかだった。

声高に反三頭を掲げて群衆と殴り合うのではない。

表面は平静を装いながら、じわりじわりと内側から継ぎ目を緩めていく。

濡れた木の楔のように。


夏。

次年度の執政官選挙。

結果は、空気を変えた。


元老院派の候補者が最高位で当選した。

三頭政治派は、辛うじてフィリッポス一人を滑り込ませたにすぎない。

街の噂は早い。

数日のうちに酒場の酔客ですら、票の流れを語りだす。


法務官選挙も同じだった。

八人のうち、三頭政治派が取れたのは二人。

数が減れば、言葉が増える。

言葉が増えれば、次は刃が欲しくなる。


「次は執政官の座を取ってやる」

「取った暁には、カエサルをガリア属州総督の任から解任してやる」


そんな大言を、わずかの差で次席に落ちたエノバルブスが吐いたと伝わった。

伝言は尾ひれをつけて広がり、尾ひれが本体より威張って歩く。


その噂を、酒場の隅で一人聞いている男がいた。

フードで顔の上半分を隠し、杯に口をつける仕草も地味だ。

だが黙っていても、肩の置き方に癖がある。

指の節が、剣を握ってきた者のそれだった。


「……解任、だとさ」

男は独り言のように呟いた。


隣の卓が笑う。

「ローマは口が先だ」

「ガリアの血より酒の泡が好きなんだろう」


男は返さない。

返さないのが上手い。

ただ杯を置き、耳だけを向けていた。


そこへもう一つ、空気の流れが変わる気配がした。

酒場の戸が開き、数人の視線がそちらへ吸われる。

入ってきた男は派手な装いではない。

だが派手さがなくても目立つ種類の威がある。

背の置き方が、命令に慣れた者のものだ。


男はフードの男の卓まで来ると、椅子を引いた。

座る前に一言だけ落とす。


「どうだ首尾は」


フードの男が、杯の縁から目だけを上げる。


「まぁまぁだ」

「なんでも俺の場所は、ここにはないらしい」


ポンペイウスは口角をほんのわずかに上げた。

笑みというより、皮肉の合図だった。


「ここは祭りが好きだ」

「祭りの灯りは眩しい」

「眩しければ、陰が濃くなる」


フードの男が言う。


「で、その陰に引きずり込まれたのはお前か」


ポンペイウスは肩をすくめた。


「食糧長官だ」

「それに海軍の総指揮も付いた」


フードの男は小さく息を吐いた。


「完全に罠だな」


ポンペイウスは頷く。


「ああ、罠だ」

「だが受ける」


「それでいい」

フードの男は迷いなく言った。


「断れば、餌を投げた連中が次の餌を探す」

「受ければ、餌を投げた手首をこっちが握れる」


ポンペイウスは杯を取り、口をつけた。

酒を飲む仕草はゆっくりだ。

十年前のように血走っていない。

それが今の彼の強さでもあり、弱さでもあった。


「この年になってな」

ポンペイウスは低く言う。

「少しずつ、やりがいをまた見出せそうだ」


フードの男が鼻で笑う。


「やりがい、ね」

「腹を満たすのがやりがいか」


「腹が満ちれば、街は静かになる」

ポンペイウスは杯を置いた。

「静かになれば、法が働く」

「法が働けば、剣を抜かずに済む」


フードの男は答えず、指先で卓を軽く叩いた。

叩き方が、地図板を叩く癖に似ている。


ポンペイウスは、少し話題を変えるように言った。


「次は劇場でも作ろうかと思っている」


「劇場」

フードの男が繰り返す。

「観衆は好きだな」


「観衆が好きなのは、見世物だ」

ポンペイウスは淡々とした。

「見世物は腹と同じでな」

「満たしておけば大人しい」


フードの男が、ふっと視線を上げる。


「娘は元気か」


ポンペイウスの顔が一瞬だけ柔らかくなる。

それが危ういほど自然だった。


「ユリアか」

「そりゃあもうもちろん」

「どこの誰に似たんだか」


「さあな」

フードの男は短く返す。

「似る相手が多すぎる」


ポンペイウスが笑いかけて、止めた。

笑いが長引けば、周囲の耳が寄る。

そして実際、遅れて気づいた者たちがいた。

ざわめきが生まれ、椅子が引かれ、視線が集まる。


「ポンペイウスだ」

「本物か」

「閣下」


人だかりが形になりかけた。


フードの男は、その瞬間を待っていたかのように立つ。

杯は空になっていないが、置いていく。


「また」


ポンペイウスは止めなかった。

止めれば余計に目立つ。

彼は人だかりに向けて、穏やかな顔を作る。

作るのが上手くなった。

その分だけ、何かを失ってもいる。


フードの男の背が、酒場の戸へ消える。

その背を見送って、ポンペイウスは小さく呟いた。


「まったくせわしない男よのぉ」


フードを被った男は、ガリアの総司令官だった。

ローマの中心から遠い場所で剣を振るいながら。

いまこの街の一杯の酒の中にも、刃が混じっていることを知っている男だった。


同じ頃。

別の場所では、舌が蜜を舐めていた。


キケロの没収された資産は、元通りになった。

焼き払われたパラティーノの丘の敷地も返還された。

さらに新築費は国家が弁償すると決まった。

追放からの帰還は名誉だけではない。

金にもなる。

それをローマは恥じない。


「正義が勝ったのだ」

キケロは言った。


周囲が頷き、称賛の言葉が飛ぶ。

彼はそれを浴びながら、内心では別の計算をしている。

正義は勝たねばならない。

だが勝つ正義を選ぶのは、いつだって人の手だ。

そして自分の舌は、その手を動かせる。


キケロは杯を掲げ、笑った。

追放の九か月が、まるで別人の出来事に見えるほどに。


ローマは今日も、捨てた者を拾い。

拾った者にまた石を用意していた。

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