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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第11章 三人の大賢人
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凱旋する弁舌

ローマは、人を捨てるのも拾うのも早い。


ブリンディシウムから伸びる道の先で、マルクス・トゥッリウス・キケロはそれを骨で知った。

九か月前。

追放の途についた彼は、声をかけても誰も振り向かず、知り合いの肩でさえ視線を避けて通り過ぎていくのを見た。

あの時の背中の群れを思えば。

今日の群衆は、まるで別の都市のようだった。


「キケロ」

「キケロだ」

「戻ってきたぞ」


名が飛び、花が飛び、腕が伸びる。

顔を上げれば、見慣れた者が見慣れぬ笑顔で手を振っている。

凱旋将軍でも迎えるかのような騒ぎだった。


キケロは手を挙げ、観衆の声へ得意の舌で返した。


「市民諸君」

「私は戻った」

「ローマの法が私を呼び戻したのだ」


歓声が膨らむ。

膨らんだ声が彼の胸を押し上げる。

彼はその波に乗りながら、内側で別の声を噛み殺していた。


貴様ら。

弱き者には手を差し伸べぬ。

私は知っておる。


だが、口から出るのは甘い言葉だ。

甘い言葉は群衆の舌を溶かす。

溶けた舌は、次に毒を吐く者を噛む。

彼はその仕組みを熟知している。


「私は忘れぬ」

「このローマが、私を待っていたことを」


嘘ではない。

ただ、真実の置き方が狡いだけだ。


それでも。

彼は有頂天だった。

まるで星になったかのように、視線を浴びることを楽しんでいた。

追放の九か月で痩せた自尊心が、今は人の声で肥え太る。


元老院。


石の冷たさは変わらない。

だが今日のクーリアには、いつもより熱があった。

戻ってきた弁舌が、空気を動かすと皆が信じている。


キケロは簡単な挨拶を終えた。

儀礼の言葉を並べ、敵の名は慎重に避け、味方の名は丁寧に撫でる。

そうして議場の空気を自分の呼吸へ引き寄せてから、本題が落ちてくる。


「三頭政治だ」

「ポンペイウスとカエサルを引きはがしたい」


誰かが言う。

別の誰かが言葉を継ぎ足す。


「クラッススはともかく」

「ポンペイウスとカエサルは厄介だ」


「ならばポンペイウスに取り入る」

「元老院派へ寄せる」

「内側から壊す」


キケロは口角を上げた。

上げたのは笑みであって、賛同ではない。

しかし否定もしない。

否定は議論を止める。

彼は議論を止めたいのではなく、議論を自分のものにしたい。


「諸君」

キケロが言う。


「取り入る、という言葉は嫌いだ」

「ポンペイウスは犬ではない」

「餌で尻尾を振る男でもない」


小さな笑いが起きた。

笑いは同意の形をしている。

それを見て、キケロは続ける。


「だが彼に、名誉を与えることはできる」

「いや」

「名誉に見える責任を与えることができる」


元老院の一人が身を乗り出す。


「具体は」


キケロは、わざと間を置いてから言った。

その間に、議場が静まり、彼の舌に全員の耳が集まる。


「向こう五年」

「ローマとイタリアに必要な食糧の確保を、一任する」


ざわめき。

五年という数字が、権力の匂いを放つ。


「ただの食糧長官では足りぬ」

キケロが言う。


「ローマの小麦の輸入先は、海外の属州や同盟国だ」

「海上輸送に頼らねばならぬ」

「つまり食糧の責任者は」

「海の責任者だ」


誰かが言う。


「海軍か」


「そうだ」

キケロは頷く。


「穀物は波に乗って来る」

「波を守る者が穀物を守る」

「ゆえに、海軍の最高責任をも含める」


元老院の別の者が、慎重に問う。


「そこまで与えるなら、権限も要るだろう」


「要る」

キケロは即答した。


「戦略単位である二個軍団以上の指揮権を意味する」

「絶対指揮権」

「インペリウムを付けるべきだ」


一瞬、空気が凍る。

インペリウム。

それは剣に柄を与える言葉だ。

柄を握る者は、望めば刃を内側へ向けられる。


だがキケロは、そこを恐れない。

恐れないふりが上手い。


「不自然ではない」

キケロが言う。


「彼は十年前、海賊の一掃を大成功させた」

「海と補給の達人だ」

「穀物の道を守らせるに、これ以上ふさわしい者がいるか」


反対の声が喉まで上がりかけた。

しかし、その声は“現実”に押し戻される。

無料の小麦。

暴れる街。

クロディウスの私兵。

飢えは剣より速い。


誰かが呟く。


「……群衆が黙る」


「黙る」

キケロは頷く。


「穀物が来れば、群衆は黙る」

「ポンペイウスが来れば、元老院も黙る」

「そしてカエサルは、遠いガリアでこの話を聞く」


黙ったのは誰か。

その沈黙が、可決を意味していった。


その知らせは、ほどなくポンペイウスのもとへ届いた。


邸宅。

庭の空気はまだ冷たいが、壁は風を遮る。

剣を置いた男の家の匂いがする。


使者が文書を差し出し、ポンペイウスは黙って読んだ。

読み終えたあとも、しばらく紙を置かなかった。

文字の裏にある声を聴いていた。


ユリアが傍へ寄る。

彼女は夫の眉間のしわを見て、小さく問うた。


「どうするのあなた」


ポンペイウスは、肩の力を抜くように息を吐いた。


「そうさなぁ」

「断る理由がない」


ユリアは安堵の色を見せる。

だがその安堵の奥に、誇りが覗く。

夫が必要とされることが、彼女にとっても名誉なのだ。


ポンペイウスは続けた。


「それにキケロには悪いことをした」

「借りもある」

「ここは引き受けようかのう」


ユリアは笑った。


「それがいいわ」


彼女は気づいていない。

いや、気づく必要がないと思っている。

この提案が元老院の仕掛けであり、三頭政治への圧力であることを。


だがポンペイウスは気づいていた。

薄々ではなく、肌で。

紙の匂いの奥に、刃の匂いがする。


それでも彼は、表情を崩さない。

崩す必要がない。

罠だと知っていても、引き受けることが最善の時がある。


ポンペイウスは文書を畳んだ。

指が震えない。


「穀物は国を支える」

彼は独り言のように言った。


ユリアが首を傾げる。


「国のため?」


ポンペイウスは笑った。

優しく、しかしどこか遠い笑いだった。


「国のため、という言葉は便利だ」

「だがまあ」

「まずはローマの腹を満たそう」


ローマの腹。

腹を満たす者は、次にどの舌を黙らせるかを選べる。

ポンペイウスはそれを知っている。

そして今、選ばされようとしていることも。

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