凱旋する弁舌
ローマは、人を捨てるのも拾うのも早い。
ブリンディシウムから伸びる道の先で、マルクス・トゥッリウス・キケロはそれを骨で知った。
九か月前。
追放の途についた彼は、声をかけても誰も振り向かず、知り合いの肩でさえ視線を避けて通り過ぎていくのを見た。
あの時の背中の群れを思えば。
今日の群衆は、まるで別の都市のようだった。
「キケロ」
「キケロだ」
「戻ってきたぞ」
名が飛び、花が飛び、腕が伸びる。
顔を上げれば、見慣れた者が見慣れぬ笑顔で手を振っている。
凱旋将軍でも迎えるかのような騒ぎだった。
キケロは手を挙げ、観衆の声へ得意の舌で返した。
「市民諸君」
「私は戻った」
「ローマの法が私を呼び戻したのだ」
歓声が膨らむ。
膨らんだ声が彼の胸を押し上げる。
彼はその波に乗りながら、内側で別の声を噛み殺していた。
貴様ら。
弱き者には手を差し伸べぬ。
私は知っておる。
だが、口から出るのは甘い言葉だ。
甘い言葉は群衆の舌を溶かす。
溶けた舌は、次に毒を吐く者を噛む。
彼はその仕組みを熟知している。
「私は忘れぬ」
「このローマが、私を待っていたことを」
嘘ではない。
ただ、真実の置き方が狡いだけだ。
それでも。
彼は有頂天だった。
まるで星になったかのように、視線を浴びることを楽しんでいた。
追放の九か月で痩せた自尊心が、今は人の声で肥え太る。
元老院。
石の冷たさは変わらない。
だが今日のクーリアには、いつもより熱があった。
戻ってきた弁舌が、空気を動かすと皆が信じている。
キケロは簡単な挨拶を終えた。
儀礼の言葉を並べ、敵の名は慎重に避け、味方の名は丁寧に撫でる。
そうして議場の空気を自分の呼吸へ引き寄せてから、本題が落ちてくる。
「三頭政治だ」
「ポンペイウスとカエサルを引きはがしたい」
誰かが言う。
別の誰かが言葉を継ぎ足す。
「クラッススはともかく」
「ポンペイウスとカエサルは厄介だ」
「ならばポンペイウスに取り入る」
「元老院派へ寄せる」
「内側から壊す」
キケロは口角を上げた。
上げたのは笑みであって、賛同ではない。
しかし否定もしない。
否定は議論を止める。
彼は議論を止めたいのではなく、議論を自分のものにしたい。
「諸君」
キケロが言う。
「取り入る、という言葉は嫌いだ」
「ポンペイウスは犬ではない」
「餌で尻尾を振る男でもない」
小さな笑いが起きた。
笑いは同意の形をしている。
それを見て、キケロは続ける。
「だが彼に、名誉を与えることはできる」
「いや」
「名誉に見える責任を与えることができる」
元老院の一人が身を乗り出す。
「具体は」
キケロは、わざと間を置いてから言った。
その間に、議場が静まり、彼の舌に全員の耳が集まる。
「向こう五年」
「ローマとイタリアに必要な食糧の確保を、一任する」
ざわめき。
五年という数字が、権力の匂いを放つ。
「ただの食糧長官では足りぬ」
キケロが言う。
「ローマの小麦の輸入先は、海外の属州や同盟国だ」
「海上輸送に頼らねばならぬ」
「つまり食糧の責任者は」
「海の責任者だ」
誰かが言う。
「海軍か」
「そうだ」
キケロは頷く。
「穀物は波に乗って来る」
「波を守る者が穀物を守る」
「ゆえに、海軍の最高責任をも含める」
元老院の別の者が、慎重に問う。
「そこまで与えるなら、権限も要るだろう」
「要る」
キケロは即答した。
「戦略単位である二個軍団以上の指揮権を意味する」
「絶対指揮権」
「インペリウムを付けるべきだ」
一瞬、空気が凍る。
インペリウム。
それは剣に柄を与える言葉だ。
柄を握る者は、望めば刃を内側へ向けられる。
だがキケロは、そこを恐れない。
恐れないふりが上手い。
「不自然ではない」
キケロが言う。
「彼は十年前、海賊の一掃を大成功させた」
「海と補給の達人だ」
「穀物の道を守らせるに、これ以上ふさわしい者がいるか」
反対の声が喉まで上がりかけた。
しかし、その声は“現実”に押し戻される。
無料の小麦。
暴れる街。
クロディウスの私兵。
飢えは剣より速い。
誰かが呟く。
「……群衆が黙る」
「黙る」
キケロは頷く。
「穀物が来れば、群衆は黙る」
「ポンペイウスが来れば、元老院も黙る」
「そしてカエサルは、遠いガリアでこの話を聞く」
黙ったのは誰か。
その沈黙が、可決を意味していった。
その知らせは、ほどなくポンペイウスのもとへ届いた。
邸宅。
庭の空気はまだ冷たいが、壁は風を遮る。
剣を置いた男の家の匂いがする。
使者が文書を差し出し、ポンペイウスは黙って読んだ。
読み終えたあとも、しばらく紙を置かなかった。
文字の裏にある声を聴いていた。
ユリアが傍へ寄る。
彼女は夫の眉間のしわを見て、小さく問うた。
「どうするのあなた」
ポンペイウスは、肩の力を抜くように息を吐いた。
「そうさなぁ」
「断る理由がない」
ユリアは安堵の色を見せる。
だがその安堵の奥に、誇りが覗く。
夫が必要とされることが、彼女にとっても名誉なのだ。
ポンペイウスは続けた。
「それにキケロには悪いことをした」
「借りもある」
「ここは引き受けようかのう」
ユリアは笑った。
「それがいいわ」
彼女は気づいていない。
いや、気づく必要がないと思っている。
この提案が元老院の仕掛けであり、三頭政治への圧力であることを。
だがポンペイウスは気づいていた。
薄々ではなく、肌で。
紙の匂いの奥に、刃の匂いがする。
それでも彼は、表情を崩さない。
崩す必要がない。
罠だと知っていても、引き受けることが最善の時がある。
ポンペイウスは文書を畳んだ。
指が震えない。
「穀物は国を支える」
彼は独り言のように言った。
ユリアが首を傾げる。
「国のため?」
ポンペイウスは笑った。
優しく、しかしどこか遠い笑いだった。
「国のため、という言葉は便利だ」
「だがまあ」
「まずはローマの腹を満たそう」
ローマの腹。
腹を満たす者は、次にどの舌を黙らせるかを選べる。
ポンペイウスはそれを知っている。
そして今、選ばされようとしていることも。




