舌と麦
ローマ。
冬の光は薄く、クーリアの石は冷たかった。
それでも人は集まる。
集まった舌が、互いの息を白くする。
「またクロディウスの名か」
「吐き気がする」
「護民官を名乗りながら、やっていることは自分の王国づくりだ」
「身勝手にも程がある」
席の間から、低い笑いが漏れた。
笑いというより、歯を噛みしめた音だった。
「小麦法だ」
「貧民への配給を、低価格どころか無料にするだと」
「愚弄している」
「国庫を何だと思っている」
「餌を投げれば群衆は手を叩く」
「そして、その手でこちらの首を絞める」
「それだけならまだしも」
「自費で私兵を雇って街を歩かせる」
「職能組合を、政治の結社に変える」
「鍛冶屋の集まりが、いつから票田になった」
「法が刃なら、彼は刃を配っている」
「しかも笑ってだ」
名を呼ばれたわけでもないのに、クロディウスの影が議場に立った気がした。
誰かが唾を飲み込む音がした。
「キケロも、ほどなく戻る」
そう言ったのは、白髪の元老だった。
言葉の端に、悔しさが滲んでいる。
「九か月、あれほどの屈辱を与えておいて」
「奴は戻る」
「戻ったとき、誰が責任を取る」
「取るべき者は、もう取らないだろう」
「それでも戻る」
「キケロは舌だ」
「舌は切り落としても、別の舌が生える」
話が、自然に別の獣へ向かった。
議場の空気がさらに重くなる。
「三頭だ」
「追い払わねばならぬ」
「いや」
「追い払うだけでは足りない」
「追い詰める」
「二度と組めぬように」
「だがクラッススはともかく」
別の声がすぐ被せる。
「ポンペイウスとカエサルは、一筋縄ではいかん」
「縄を切られる」
「いや、縄ごと引きずられる」
「ならば、こちらが縄を編み直すしかない」
「うまくやるのだ」
誰かが笑いかけ、笑い切れずに咳をした。
うまくやる。
それは正面から殴り合えない者の言葉であり、同時にローマの得意技でもあった。
そこで、一人が手を挙げた。
年は若くない。
しかし目だけが乾いている。
「案がある」
ざわめきが沈む。
「三頭を、外から砕くのは難しい」
「ならば内側から砕け」
「どうやって」
「クラッススは金だ」
「金は敵にも味方にもなる」
「だがカエサルとポンペイウスは」
「二人とも剣だ」
「剣を折るのは骨が要る」
提案者は首を振った。
「折る必要はない」
「二人を離反させればいい」
「離反」
「三頭政治が、互いに何も思っていないとでも」
「思っているところがゼロではない」
「ゼロでないなら、増やせる」
すぐに別の声が刺す。
「だが、どうやって増やす」
「憎しみは火だ」
「近づけばこちらが焼ける」
提案者は一拍置いた。
その間に、議場の誰もが自分の胸の火種を確かめた。
「カエサルは保守ではない」
「常に改革を求める」
「昨日の掟を、今日の障害として踏む男だ」
「ならば、付け入る隙はない」
「そう言いたいのか」
提案者は言った。
「付け入る隙があるのはポンペイウスだ」
その名が出た瞬間、空気がわずかに変わる。
嫌悪ではない。
恐れでもない。
測りかねている者の沈黙だ。
「彼はスッラのもとで育った」
「秩序と勝利の味を、若いうちに覚えた」
「だが今は」
誰かが言葉を探す。
探した末の言い方は慎重だった。
「最近は……歳を取った」
「それに、ユリアだ」
提案者が続ける。
「カエサルの妹だったか」
と、別の元老が口を挟む。
その途端、あちこちから小さな訂正が飛んだ。
「娘だ」
「妹ではない」
提案者は頷き、言い直す。
「カエサルの娘、ユリア」
「最愛の妻のおかげで、ポンペイウスは保守に寄っている」
「家を持てば、壁を愛する」
「壁を愛すれば、変革を嫌う」
「なにより」
提案者は言葉を低くした。
「カエサルは危険だ」
「だがポンペイウスは、危険ではない」
「……危険ではない、だと」
笑いかけた声が、笑い切れずに止まる。
その断言が大胆すぎたからではない。
どこかで皆が同じことを思っているのに、口に出すのが怖かったからだ。
「危険なのは剣の先だ」
「ポンペイウスは、剣の鞘になりたがっている」
「鞘に取り入れろと」
「そうだ」
提案者は頷く。
「ポンペイウスを、元老院派へ引き入れる」
「表では敬意を」
「裏では役目を」
「彼に、こちらの側で秩序を守らせる」
「そして三頭政治を、内側から壊す」
「クラッススの金は、カエサルの戦と結ぶ」
「ポンペイウスがこちらに寄れば、その結び目は緩む」
「だがカエサルは」
誰かが言う。
「今、ガリアで戦争中だ」
「だから良い」
提案者の答えは早い。
「遠い」
「遠い男の声は遅れる」
「遅れる間に、こちらは席を作れる」
「席を作る」
「ポンペイウスのための席を」
「そうだ」
「彼は危険ではない」
「危険でない男は、抱えられる」
誰かが呻くように言う。
「抱えた瞬間に重くなるぞ」
「重さは、こちらが分け合えばいい」
提案者は言った。
「重さを恐れて、今の軽薄に殺されるよりましだ」
議場の端で、年嵩の元老がゆっくり頷いた。
「クロディウスの私兵が街を歩く」
「無料の小麦が群衆を太らせる」
「キケロが戻れば、舌が火をつける」
「三頭が揃えば、法が曲がる」
「ならば我らは」
彼は続けた。
「曲がる前に、別の曲がりを作る」
「ポンペイウスをこちらへ」
賛同が増える。
反対は消えない。
だが反対の声も、やがて計算の声へ姿を変えた。
「どう口を開く」
「誰を使う」
「誰が最初に会う」
「恩を与えるのだ」
「恩は鎖だ」
「鎖は、締めすぎれば切れる」
「切れぬ程度に締めろ」
議論は続き、冬の光はさらに薄くなる。
決めるべきは大義ではない。
誰がどこへ行き、どんな言葉を投げ、どんな沈黙を置くか。
ローマの戦は、剣の外でも鳴っていた。
そしてその戦場で、彼らはポンペイウスという名の重りを、こちら側へ引き寄せようとしていた。




