アルペースの谷
少し時をさかのぼる。
カエサルがイタリアへ向けて旅立つ、その前のことだ。
天幕の中。
地図板の上には、レマンヌス湖とロダヌス河。
その先に、白く削られた線のようなアルペースの峰々が描かれていた。
カエサルは指を伸ばし、その山脈の背をゆっくりとなぞった。
まるで獣の背骨を確かめるように。
「セルウィウス・ガルバ」
カエサルが呼んだ。
ガルバは一歩進み出て、右拳を胸に当てた。
「ここへ行け」
カエサルは地図板を叩いた。
アロブロゲース族の辺境。
レマンヌス湖とロダヌス河から、峰々へかけて広がる地。
「第十二軍団を持て」
「騎兵も一部付ける」
幕僚の一人が慎重に言う。
「アルペース越えの路は、昔より危ううございます」
「だからだ」
カエサルは短く答えた。
「商人どもは、いつも命を賭けて越えている」
「危険だけではない」
「莫大な関税で骨まで削られる」
ガルバが問う。
「閣下は、その路を……守るのですか」
「守るだけではない」
カエサルは目を上げ、言葉を噛むように選んだ。
「開く」
「路は兵より長く残る」
「路は税を運び、税は兵を増やす」
「それが戦の背骨だ」
ガルバは頷いた。
「命令のままに」
カエサルはそれ以上、慰めも誇張もしなかった。
任務は任務として、ただ渡された。
ガルバは谷へ入った。
勝利を重ねた。
いくつも砦を落とした。
散り散りの部族の小さな抵抗を折り、道筋をつないでいった。
やがて各地から使節が彼のもとへ集まり、人質が差し出され、講和の形が整っていく。
言葉が通じるほどに、相手の目の底が見えてくる。
それは降伏の色でもあり、恨みの色でもあった。
冬が迫る頃。
ガルバは軍を割った。
「ナントゥーアーテースの地に二箇コホルスを残す」
「要路を押さえる」
百人隊長が答える。
「はっ」
残りは自ら率いて、オクトドゥールスへ向かった。
ウェラグリー族の村だ。
そこを冬営地と定めた。
村は谷間にあった。
傍に僅かばかりの平地があるだけで、周囲は高い山に囲まれ、空は狭い。
さらに河が走り、集落は二つに分かれていた。
ガルバは現地の案内者を前に置き、河の左右を見比べた。
「村の一方にガリア人を置く」
「ガリア人のいない方を、我らに割り当てる」
副官が言う。
「混ぜぬのですな」
「混ぜれば、夜に刃が出る」
ガルバは淡々と答えた。
そして命じた。
「堡塁を築け」
「壕を掘れ」
「杭を立てろ」
「谷は逃げ道ではない」
「谷は棺になる」
工兵が叫び、兵が土を運び、木が組まれていく。
冬営は休息ではなく、次の刃のための整形だった。
冬営の数日が過ぎた。
ガルバは講和の取り決めに従い、穀物の持ち込みを命じた。
命じた、というより、約束を現物に変えさせようとした。
その夜だった。
ガリア人に割り当てた村の一部。
そこから夜中に、すべての者が立ち去った。
火が消えた。
声が消えた。
人の気配だけが、空の器のように残った。
見張りが報せに走り、副官が顔色を変えて言う。
「閣下、ガリア人が……消えました」
ガルバは眠りの底から引き上げられるように起き、外へ出た。
息が白い。
谷の冷えは、皮膚より先に骨を掴む。
そして見た。
差し迫った山々。
その稜線から斜面にかけて、黒い群れが貼りついている。
セドゥニー族とウェラグリー族。
大群。
誰かが叫ぶ。
「山が……埋まっている!」
ガルバは呟いた。
「……来たか」
副官が唇を噛む。
「講和は、欺きだったのですか」
「講和は終わったのだ」
ガルバは答えた。
「約束が破られたのではない」
「破るべき時が来たと、彼らが決めただけだ」
敵が攻め込む理由は、谷の形そのものが語っていた。
第一。
軍団の二箇コホルスを派遣した以上、兵力は満ちていないと侮られる。
さらに各々が食糧を求めに出て留守となっている。
今ここにいる数だけを見れば、確かに薄い。
第二。
地形が味方しない。
山から谷へ駆け下り、石とテラを雨のように投げつければ、最初の一撃で陣が乱れると敵は踏んだ。
上から落ちるものは、盾が受けても足を崩す。
第三。
彼らは苦しんでいる。
子どもを人質として連れ去られたことを。
そして疑っている。
ローマは通路のためだけではない。
永久に所有するために、この峰々を占領し、この地方を属州プロウィンキアに加えるつもりだと。
ガルバは山を見上げたまま、短く命じた。
「角笛を鳴らせ」
「全員を起こせ」
「持ち場へ入れ」
「壁から離れるな」
副官が問う。
「打って出ますか」
ガルバは首を振った。
「出るな」
「谷で壁を捨てた者から死ぬ」
「今夜は、冬営が戦場になる」
角笛が鳴り、眠りは引き裂かれた。
兵が走り、鎧の音が谷に反響し、稜線の黒い群れが動き始めた。




