冬営地、合流
ベルガエの平原で勝報が固まった、と伝令が持ち込んだ夜。
「これで全ガリアは――」と誰かが言いかけて、言葉が火に吸われた。
クラッスス・ジュニアは地図板の上を指で叩き、淡々と告げた。
「冬営地が決まった。カルヌテス、アンデス、トゥロニー――ガリア中西部だ。本陣はそこへ落ち着く。……我らも合流する」
「やっと本隊の鍋が食えるんか」
テオトニクスが言った。
「海の魚より、あっちの粥のほうが恋しいわ」
セリスィンは笑わずに、しかし声は柔らかく返す。
「粥が恋しいと言う剣闘士がいるか」
「お前も恋しいやろ。言わんだけで」
クラッスス・ジュニアは二人のやり取りを聞き流し、命令だけを切った。
「百人隊長。道中、列を締めろ。合流の場で見苦しくするな」
「はい」
セリスィンが答え、すぐ兵へ向き直る。
「荷は軽く。靴紐は二重。遅れた者は列の外に置く」
「置く言うな、置く言うな」
テオトニクスが手をひらひらさせた。
「遅れた奴は俺が尻を蹴って前に出す。――おい、尻は鎧で守れんぞ」
兵が小さく笑い、行軍の空気が締まったまま軽くなる。
冬営地の外縁に近づくほど、ローマの匂いが濃くなった。
伐り出した木材、乾いた土の溝、煙の筋。
見張りの声が規則正しく回り、夜の火は等間隔に揺れている。
門前で止められることもなく、クラッスス・ジュニアの名が通ると、衛兵がすぐ道を開けた。
「クラッスス!」という声が走り、次の瞬間には懐かしい顔が幾つも現れる。
ペディウスが先に出てきた。鎧は傷だらけだが、歩き方は変わっていない。
「生きていたか」
ペディウスが言う。
クラッスス・ジュニアが頷く。
「お前もな。……ベルガエでは色々あったと聞いた」
「色々どころじゃねぇ」
ペディウスは鼻で笑った。
「“平定した”って言葉は便利だな。現場の汗まで平らにしやがる」
その後ろから、サビヌスが姿を見せる。
疲れた顔なのに、目だけが妙に冴えている。
「よく来た。海沿いの遠征はどうだった」
「勝ちました」
セリスィンが短く答える。
テオトニクスが横から言う。
「勝ったし、寒かったし、風が腹立つ海やった」
「相変わらずだな」
サビヌスが笑った。
ラビエヌスも遅れて現れた。
甲冑の音を立てずに近づく癖まで、昔のままだった。
「合流、ご苦労。――クラッスス、よく部隊を保った」
「副将殿も」
クラッスス・ジュニアが礼を返す。
「ベルガエの報は断片しか届かないけど、ペディウス、サビヌスが活躍したと聞いたぜ」
ペディウスが肩をすくめる。
「活躍って言うと聞こえはいいが、要するに“働かされた”ってことだ」
サビヌスが静かに補った。
「敵も味方も動いた。閣下の目が届かぬ距離で、我らが手足にならねばならなかっただけだ」
「その“だけ”が重い」
クラッスス・ジュニアはそう言い、今度は自分の側を示した。
「こちらも報せる。セリスィンとテオトニクスだ。沿岸での働きは見事だった。百人隊長に昇格させた」
ペディウスがセリスィンを値踏みするように見て、口の端を上げた。
「……なるほど。顔が昔より厄介になってる。百人隊長の顔だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
セリスィンが言う。
テオトニクスは大げさに胸を張った。
「どうや、ペディウス。敬礼いるか?」
「要らねぇ」
ペディウスが即答する。
「その調子で戦列だけは崩すな」
ラビエヌスは二人を一瞥し、淡々と頷いた。
「よく耐えた。剣闘士は一対一の場に慣れている。百人隊長は、百の恐怖を束ねる。――その顔は、束ねる側の顔だ」
褒められたのに、セリスィンの喉が少し乾いた。
束ねる、という言葉の重みが、剣より遅れて腹に落ちる。
それでも、合流の火は温かかった。久々に揃った名が行き交い、互いの無事を確かめる声が続く。
そして、誰かがふと口にした。
「……閣下は?」
その一言で、周囲の視線が一斉にラビエヌスへ集まった。
クラッスス・ジュニアも、そこで初めて不在の輪郭をはっきり掴んだ。
天幕の中心にいるはずの男がいない。
いるべき場所が、最初から空白になっている。
ラビエヌスは、答えを用意していた口調で言った。
「閣下はイタリアへ戻られた」
「ここを置いて?」
クラッスス・ジュニアが眉を上げる。
「置いたのではない。任せたのだ」
ラビエヌスは言い直した。
「属州の統治、政務、裁判――それに、感謝祭。十五日間に及ぶ」
「十五日……」
セリスィンが呟く。
テオトニクスが唇を尖らせる。
「戦争の指揮官が、政治も法も祭りもやるんか。ほんま、怪物やな」
セリスィンは同意しなかったが、否定もしなかった。
怪物――その言葉が、別の意味で胸に引っかかる。
アリオウィストゥスの怪物ではなく、カエサルの怪物だ。
人の器の大きさが、時に恐ろしく見える。
クラッスス・ジュニアが問いを重ねた。
「なぜそこまで急がれた。冬営に入り、ようやく息がつける時期だろう」
ラビエヌスは一瞬だけ目を細めた。
「急いでおられた。印象ではない。実際に、急いでおられた」
「何があった」
クラッススが短く問う。
「レーヌス河以東からも、我らの戦勇が響いた」
ラビエヌスが答える。
「人質を差し出すという使者が来た。だが閣下は、受け取られなかった」
「断ったのか」
クラッスス・ジュニア。
「先送りにされた。――『次の夏の初めに来い』と」
その場にいた者たちが、互いの顔を見た。
人質は勝利の証であり、支配の釘だ。
それを“今”ではなく、“次の夏”へ回す。
普通の将なら、目の前の成果を取りに行く。
「それを置いてまで、イタリアへ?」
セリスィンが言った。
ラビエヌスは頷いた。
「属州は兵站であり、金であり、法であり、民心だ。――閣下は戦場の外で戦っておられる。戦場の勝ちだけでは足りぬ、と」
テオトニクスが小さく息を吐いた。
「……ほんまに休む暇ないな。勝っても終わらん」
ペディウスが不機嫌そうに笑う。
「だから厄介なんだ、あの人は」
クラッスス・ジュニアは短く言った。
「我らは冬営を守る。副将殿、指揮は」
「私が執る」ラビエヌスが即答する。
「閣下が戻られるまで、動揺を出すな。噂を走らせるな。――“閣下不在”は、敵にとって蜜だ」
セリスィンはその言葉に、別の熱を覚えた。
戦争は剣だけではない。
席を立つ速度すら、武器になる。
テオトニクスが、いつもの調子を無理に取り戻すように言う。
「ほな、俺らは“蜜”にならんように働くか。……粥、食えるんやろ?」
ペディウスが顎で天幕の方を示した。
「食え。だが食ったら寝るな。冬営は戦場より油断で死ぬ」
クラッスス・ジュニアがセリスィンとテオトニクスを見た。
「明日から訓練だ。百人隊長の肩書きは、盾と同じだ。磨かなければ錆びる」
「はい」
セリスィンが答える。
「おう」
テオトニクスも答え、続けて小声でぼやいた。
「ねぎらいの冬営ちゃうんかい」
その夜、久々の合流の火は賑わった。
だが火の外側で、セリスィンはふと考えた。
カエサルは、勝ってなお急いでいる。
何かが次の季節に待っている――そう思わせる速さだった。




