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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第11章 三人の大賢人
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新生

冬営で一年を越えた頃、クラッスス・ジュニアの一箇団は本隊から切り離され、大西洋岸のガリアへ派遣されていた。


潮の匂いがする。風が強く、声は運ばれても形が崩れる。セリスィンはその風の中で、兵の顔だけを順に確かめた。手元の剣より先に、列の端が揺れるのが目につく。


「第十隊――列を詰めろ。詰めすぎるな。盾と盾の縁が合うところで止めろ」


兵が肩を寄せる。革鎧が擦れ、鉄が小さく鳴った。


「投槍は、俺の合図まで。勝手に放つな。一本の価値を思え」


若い兵が唾を飲み込み、槍の柄を握り直す。


少し離れた所で、同じく百人隊長となったテオトニクスが、自分の隊に向かって腕を振り回していた。笑っているのか叱っているのか、いつも境目が曖昧だ。


「おい、第九隊! 海風に負けて顔が死んどるぞ。息、吐け。歯ぁ食いしばったら腹が固まる。腹が固まったら足が止まる。足が止まったら首が飛ぶ。順番や」


「百人隊長、冗談は……」


「冗談ちゃう。生き残る手順や。――軍旗手、旗を前に出しすぎるな。目立つもんから刺される。今日はお前の胸じゃなく、俺の背中で目立て」


兵が苦く笑い、緊張が少しだけほどけた。


前方の低い丘の向こう、敵の塊が動いた。木柵と土の盛り土に隠れていた者たちが、いっせいに海岸の草地へ滑り出してくる。石が飛び、鈍い音が盾を叩いた。


「盾、上!」セリスィンが叫ぶ。「目を上げるな。盾の縁だけ見ろ。――列を崩すな、三歩で受けて止めろ!」


兵は三歩だけ下がり、止まった。足裏が土を掴み、列が波のように揺れても切れない。


「第九隊、右肩から押せ!」テオトニクスが吠える。「肘で押せ! 剣は後! まず壁や!」


敵がこちらの端を狙って圧をかけてくる。崖に近い。押されれば落ちる。セリスィンは風の方向を見て、短く言った。


「テオトニクス。半歩、引け。崖際だ」


「引くんか?」


「落ちたら終わる」


一拍、テオトニクスの顔から笑いが消えた。次の瞬間、彼は舌打ちするように頷く。


「……ちっ。ほな、半歩だけや。半歩引いて、半歩で殺す」


「それでいい」


セリスィンは前を見た。敵は勢いに乗っている。勢いは、止めるより折る方が早い。


「投槍、用意」


隊が一斉に槍を持ち上げる。肩、肘、手首の角度が揃う。闘技場の一人の呼吸ではない。百人の息が一つになるときの重みだ。


「――今だ。投げろ!」


槍が風を裂き、敵の列に吸い込まれた。叫びが上がる。ひるんだ瞬間が、割れ目になる。


「抜け。剣!」テオトニクスが叫ぶ。「盾は捨てるな! 盾で殺せ!」


セリスィンは短く命じた。


「前へ。柵の口をこじ開けろ。斧持ち、前。盾の裏へ入れ。槍衆、隙間に突け――目じゃない、腿だ!」


木が裂け、土が崩れる音がした。敵は退く。退きながらも、まだ戦う者の目でこちらを見ている。だが、列が折れれば終わりは早い。セリスィンは追撃の衝動を喉元で殺した。


「追い過ぎるな。二列目、前へ。負傷者を踏むな。――武器を捨てる者は斬るな、縛れ」


勝利は、倒れる音だけでは完成しない。崩れた後を整える声が要る。


やがて敵は散り、こちらは踏みとどまったまま、戦場の線を自分たちのものにした。クラッスス・ジュニアが騎上から近づき、短く言う。


「よし。十分だ。略奪は禁止。捕虜と武器を数えろ。――百人隊長、よくやった」


セリスィンは喉の乾きを飲み込み、ただ頷いた。テオトニクスは血の付いた手で髪をかき上げる。


「ほな、帰れるんやな。……腹減ったわ」


「喋れるなら生きてる」セリスィンは言った。


「お前の褒め言葉、硬すぎて歯ぁ折れる」


「折れたら静かになる」


「ひどい!」


それでも二人の歩幅は揃っていた。遠征は終わり、列は海沿いの道を戻る。風はまだ強いが、今は槍を飛ばしてこない。


帰還の途中、岩場の高みで隊が一息ついた。眼下に、大西洋が広がっている。終わりがないように見えた。波は白く砕け、遠い水平線は、剣の切っ先ほどの薄さで空と海を分けていた。


セリスィンは足を止めた。誰にも見せるつもりのない顔で、向こう側を見た。


「おーいセリスィンどうした帰るぞ」


声に振り向くと、テオトニクスが肩からマントをずり落としながら立っている。


「あの向こうには何があるんだろうな」


「何って」


テオトニクスはしばらく考えた。風が髪を揺らし、目だけが妙に真面目になったかと思うと、次の瞬間にその目がいつもの形に戻る。


「おっぱいとか?」


「死ね」


セリスィンは無言でテオトニクスの鎧の胸当てを掴み、崖の縁へ押しやった。


「お、おい! 冗談や! 冗談やて!」テオトニクスが両手を振る。「鎧掴むな、鎧!」


「お前が軽口叩くたび、俺の心が重装歩兵になる」


「重装歩兵は落ちたら浮かばんぞ!」


「だから落ちろ」


「やめぇ! ほんまにやめぇ!」テオトニクスが必死に踏ん張る。「海の神に供物にすんな!」


セリスィンは一瞬だけ、水平線に目を戻した。向こうには、何があるのか。葡萄畑か、怪物か。あるいは、まだ知らない戦争か。


「……今日は見逃す。歩け」


テオトニクスは大げさに息を吐き、崖から離れた。


「助かった……。ほな次は、ちゃんと“海の向こうには葡萄畑”とか言うとくわ」


「それも死ね」


「理不尽!」


波の音に紛れて、その声だけがやけに明るく残った。セリスィンは歩き出す。海を背に、隊へ戻る。百人隊長として、次の季節へ戻る足取りで。

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