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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第10章 そして、冬営へ
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ローマの静かな盾

ローマの邸宅は、戦場より静かだった。

静かだからこそ、声ひとつで空気が変わる。


執事が控えめに戸口へ立ち、言った。


「閣下。キケロが助けを求めています」


広間の奥、書類の束に目を落としていた男が顔を上げた。

グナエウス・ポンペイウス。ローマの“勝ち方”を知りすぎた男。


「放っておけ」


執事がわずかに息を呑む。


「……しかし、キケロは——」


「今のキケロに取り合うことは危うすぎる」


ポンペイウスは視線を紙へ戻した。切り捨てるようで、切り捨てていない。危険の重さを量っただけの声だった。


背後から、柔らかい声が入る。


「でも、可哀想」


ユリアだった。ポンペイウスの妻。

カエサルの娘で、ローマの“結び目”の一つ。


執事が困ったように目を伏せる。


「夫人……」


ユリアは気にせず続けた。


「お父様も……どうしてあんな人を、護民官にさせたのかしら」


ポンペイウスが眉を動かす。


「……クロディウスか」


ユリアは頷く。声に棘が混じる。


「そう。お父様の妻と別れる“理由”を作った男に」

「ボナ女神祭の時よ。女装して、お父様の家に入り込んだ……あの人」


ポンペイウスは、ため息にも似た息で言った。


「なんでも——その“悪趣味”を、カエサルが気に入ったらしい」


ユリアが目を丸くする。


「気に入った? 冗談でしょう」


「冗談じゃない。結果的に妻と別れることになったとしても、だ」


ユリアは口元をしかめた。


「ピエロね。お父様も。……冗談が過ぎる」


ポンペイウスは椅子の背に体重を預け、淡々と続けた。


「冗談だけでやっているわけじゃない」

「後ろめたさがある男は、手綱が引きやすい。クロディウスを握れば、元老院と戦いやすくなる」


ユリアが静かに言う。


「それで……今はキケロが追われている」


ポンペイウスは頷いた。


「そうだ。裁判の時、キケロはクロディウスに不利なことを言った。——クロディウスは、ああいう恨みを忘れない」


ユリアが執事の方を見た。


「だからキケロは助けを求めてるのに……あなたは放っておくの?」


ポンペイウスは、少し言葉を選ぶように間を置いた。


「キケロはいいやつだ。聡明だ。言葉でローマを動かせる」

「だが、今はクロディウスを敵に回せない」


ユリアの声が低くなる。


「三頭政治をしている以上……お父様も、あなたも、クロディウス側につくしかないのね」


「そうだ」


ポンペイウスの肯定は短かった。


ユリアは、その短さが嫌だった。分かっているのに、納得したくない顔で言う。


「それは結局——ガリア遠征に行ってる“彼”のため?」


ポンペイウスは少しだけ笑った。勝ち誇る笑いではない。

今この都で、誰の名前が一番“重い”かを知っている笑いだった。


「……そうだな」


そして、机の上の紙束を整えながら、まるで天気の話のように付け足した。


「いまローマで余計な敵を作るのは、得策じゃない」

「キケロには悪いが——今は、守る順番がある」


執事が恐る恐る言った。


「では……お断りを?」


ポンペイウスは顔を上げずに答えた。


「返事はする。丁寧に。——だが、助けは出さない」


ユリアは何も言えなかった。

戦場で流れた血とは別のものが、ここでは静かに切り捨てられていく。


ローマという都は、剣を抜かずに人を追い詰める。

そのやり方を、夫は当たり前のように使っていた。

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