ローマの静かな盾
ローマの邸宅は、戦場より静かだった。
静かだからこそ、声ひとつで空気が変わる。
執事が控えめに戸口へ立ち、言った。
「閣下。キケロが助けを求めています」
広間の奥、書類の束に目を落としていた男が顔を上げた。
グナエウス・ポンペイウス。ローマの“勝ち方”を知りすぎた男。
「放っておけ」
執事がわずかに息を呑む。
「……しかし、キケロは——」
「今のキケロに取り合うことは危うすぎる」
ポンペイウスは視線を紙へ戻した。切り捨てるようで、切り捨てていない。危険の重さを量っただけの声だった。
背後から、柔らかい声が入る。
「でも、可哀想」
ユリアだった。ポンペイウスの妻。
カエサルの娘で、ローマの“結び目”の一つ。
執事が困ったように目を伏せる。
「夫人……」
ユリアは気にせず続けた。
「お父様も……どうしてあんな人を、護民官にさせたのかしら」
ポンペイウスが眉を動かす。
「……クロディウスか」
ユリアは頷く。声に棘が混じる。
「そう。お父様の妻と別れる“理由”を作った男に」
「ボナ女神祭の時よ。女装して、お父様の家に入り込んだ……あの人」
ポンペイウスは、ため息にも似た息で言った。
「なんでも——その“悪趣味”を、カエサルが気に入ったらしい」
ユリアが目を丸くする。
「気に入った? 冗談でしょう」
「冗談じゃない。結果的に妻と別れることになったとしても、だ」
ユリアは口元をしかめた。
「ピエロね。お父様も。……冗談が過ぎる」
ポンペイウスは椅子の背に体重を預け、淡々と続けた。
「冗談だけでやっているわけじゃない」
「後ろめたさがある男は、手綱が引きやすい。クロディウスを握れば、元老院と戦いやすくなる」
ユリアが静かに言う。
「それで……今はキケロが追われている」
ポンペイウスは頷いた。
「そうだ。裁判の時、キケロはクロディウスに不利なことを言った。——クロディウスは、ああいう恨みを忘れない」
ユリアが執事の方を見た。
「だからキケロは助けを求めてるのに……あなたは放っておくの?」
ポンペイウスは、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「キケロはいいやつだ。聡明だ。言葉でローマを動かせる」
「だが、今はクロディウスを敵に回せない」
ユリアの声が低くなる。
「三頭政治をしている以上……お父様も、あなたも、クロディウス側につくしかないのね」
「そうだ」
ポンペイウスの肯定は短かった。
ユリアは、その短さが嫌だった。分かっているのに、納得したくない顔で言う。
「それは結局——ガリア遠征に行ってる“彼”のため?」
ポンペイウスは少しだけ笑った。勝ち誇る笑いではない。
今この都で、誰の名前が一番“重い”かを知っている笑いだった。
「……そうだな」
そして、机の上の紙束を整えながら、まるで天気の話のように付け足した。
「いまローマで余計な敵を作るのは、得策じゃない」
「キケロには悪いが——今は、守る順番がある」
執事が恐る恐る言った。
「では……お断りを?」
ポンペイウスは顔を上げずに答えた。
「返事はする。丁寧に。——だが、助けは出さない」
ユリアは何も言えなかった。
戦場で流れた血とは別のものが、ここでは静かに切り捨てられていく。
ローマという都は、剣を抜かずに人を追い詰める。
そのやり方を、夫は当たり前のように使っていた。




