ブザンソンの秋、休みの形
「九月だ。少し早いが——冬営に入る」
カエサルの声が広場に通ると、兵たちの肩から一斉に力が抜けた。
「場所はセークァニー族のブザンソン。今回の戦で主要な砦となったところだ」
「よく耐えた。よく走った。よく勝った。——休め。鍛えろ。飲め」
「休め」「鍛えろ」「飲め」が同じ口から出るのが、ローマらしいとセリスィンは思った。
ブザンソンの冬営は、勝者の匂いがした。
「宴、続きすぎやろ!」
「文句言うな、次はパンが硬くなるぞ!」
鍛錬と宴が、交互に来る。
朝は槍、昼は工事、夕は酒。夜は寝る者と、寝ない者。
テオトニクスは相変わらず輪の中心にいた。
「おい、セリスィン! 座れ座れ! 勝った日の酒は、腹で飲むんやなくて胸で飲むんや!」
「意味分かんねぇよ」
「分からんでも飲め!」
セリスィンは杯を受け取った。悪夢が消えるわけじゃないが、少しだけ息がしやすい夜が増えるのは事実だった。
数日後、陣営に“出発”の空気が混じった。
「閣下が動くぞ」
「どこへ?」
「アルプス越えだってよ」
「……また戦か?」
「違う。内政と裁判だとさ」
その言葉を聞いたテオトニクスが、口を開けたまま固まった。
「なんやそれ。戦争の最高指揮官のほかに、政治や法律もするんかいな」
隣の兵が笑う。
「するんだろ。ローマだぞ」
テオトニクスは首を振った。
「バケモンやな……」
セリスィンは笑えなかった。
アリオウィストゥスの“怪物”とは種類が違う。刃の怪物ではなく、世界を動かす怪物だ。
出発前、カエサルはラビエヌスと短く言葉を交わした。
「留守、頼む」
「承知しました。軍の最高責任はこちらで」
「揉め事は減らせ。増えるなら、揉める前に潰せ」
「潰すより先に、列を立て直します」
「いいね。——じゃ、行ってくる」
軽い。軽いのに、置いていく背中が重い。
テオトニクスがセリスィンに小声で言った。
「お前、閣下の背中見て、怖くならへん?」
「……なる」
「どっちの意味で?」
セリスィンは少し考えて答えた。
「追いつけないって意味で」
テオトニクスが鼻で笑った。
「真面目やなぁ」
そして冬営の中で、セリスィンとテオトニクスは“休み”を受け取り損ねた。
「お前ら、こっちだ」
プブリウス・クラッスス——クラッスス・ジュニアが呼ぶ。
「今日から、お前らは百人隊長の補佐として動く。次期百人隊長候補の訓練だ」
テオトニクスが即座に文句を言った。
「くっそ。ねぎらいのための休みやなかったんかいな!」
クラッススは涼しい顔で返す。
「ねぎらいだ。だから“次に死なないための休み”をやる」
「休みの定義それで合ってます?」
「合ってる。ローマではな」
セリスィンが黙っていると、クラッススが覗き込んだ。
「お前は、文句を言わないのか」
セリスィンは少し間を置いて答えた。
「……言っても変わらないなら、やります」
「いい返事だ」
クラッススは木槍を一本投げてよこした。
「まず、お前らは“指示する側”の動きを覚えろ。槍を振るのは簡単だ。列を振らせるのが難しい」
テオトニクスが槍を受け取りながらぼやく。
「列を振らせるって、俺ら剣闘士やで? 観客は振らせたことあるけど」
クラッススが即答する。
「その才能を戦場に転用しろ。声は武器だ。——ただし、観客を喜ばせる声じゃなく、味方が生き残る声にしろ」
「難しっ」
セリスィンは木槍を握り、ふと頭の中に浮かんだものを振り払えなかった。
救えなかった命。
目の前で剣を振るったデキムスの顔。
あの時、自分が止めたはずなのに止めきれなかった感触。
クラッススが言う。
「お前ら、戦場で何を見た?」
テオトニクスが答える。
「……穴が空いたら終わる、っての」
セリスィンも言う。
「核が折れたら、全体が崩れる」
クラッススは頷いた。
「それだ。剣闘士は“相手”を倒す。百人隊長は“崩れ”を倒す」
「お前らは、もうそっち側に足が入ってる。——なら、引き上げる」
テオトニクスが肩を落として言った。
「休み、どこいったんや……」
クラッススは笑わずに言う。
「酒は飲め。寝ろ。だが、強くなれ。冬は短い。春になったら、また走る」
セリスィンは木槍を握り直した。
「……はい」
その返事は、宴の「はい」じゃない。
次に同じものを見ても、同じように手が止まらないための返事だった。




