勝ちきれなかったもの
「……結局、捕まえられなかったのか」
「逃げた。小舟だ」
「レーヌス河を渡って戻ったらしい」
追撃から戻った報が、淡々と積み上がっていく。
“怪物”アリオウィストゥスは、最後まで手の中には入らなかった。
「ローマは勝った」
「ゲルマーニーは川向こうへ押し返された」
結果だけ言えば、それで終わりだ。
――でも、セリスィンの中では終わっていなかった。
夜。勝利の宴。
火が焚かれ、酒が回り、兵の笑い声が戻る。
テオトニクスは案の定、輪の中心で杯を掲げていた。
「ほら見ぃ! 勝ったら飲む! 負けても飲む! せやけど今日は勝ったから飲む!」
「お前それ毎日飲む口実作ってるだけだろ!」
「口実がないと飲めへんのか、お前は!」
笑い声が跳ねる。
セリスィンはその輪の外にいた。座っている。杯は持っている。飲んでもいる。
でも顔は神妙なままだった。
(勝ったのに、逃した)
(刃は届いたのに、折れなかった)
(そして――)
あの女。デキムスの剣。止められなかった自分。
「……おい」
声がして顔を上げると、プブリウス・クラッスス――クラッスス・ジュニアが立っていた。宴の場でも背筋が伸びている。
「ここ、座っていいか」
「どうぞ」
クラッススは座り、少しだけ周りの騒ぎを見てから、単刀直入に言った。
「聞きたいことがある」
セリスィンは黙って頷く。
クラッススが言う。
「あの時、なぜ真っ直ぐアリオウィストゥスに向かった」
セリスィンは一拍置いた。
言い訳に聞こえるのが嫌だった。けれど、黙って飲み込むのも違う気がした。
「……必要だと思った」
「必要?」
「勝っても、あいつが“折れない”なら、また来る」
「戦は集団で勝つものだって分かってる。……でも、あいつの目が生きてる限り、終わってない気がした」
クラッススはセリスィンの顔を見たまま、静かに言った。
「だが、折れなかった、か」
「……折れなかった」
セリスィンは杯を握り直した。
「力の差を感じた。あんな化け物でも、結局は戦争としては数で押し返せる。押し返して勝った」
「でも、俺は個としてのあいつを倒せなかった」
クラッススが短く問う。
「それだけか」
セリスィンは息を吐く。
「……それだけじゃない」
クラッススは急かさない。待つ。
セリスィンが続ける。
「妻を……死なせた」
「目の前でデキムスが殺した。俺は止めたかった。止めるべきだった。止めたかったのに……止められなかった」
クラッススの目がわずかに細くなる。
「甘いと思うか」
セリスィンは、苦い声で答えた。
「……甘い」
「分かってるのに、まだ腹が立つ。まだ引っかかる」
クラッススは頷いた。
「いい」
セリスィンが顔を上げる。
「……いい、んですか」
「“引っかかる”のは、生きてる証拠だ。引っかからなくなったら、戦場で楽になる。だが、人としては——別の場所が死ぬ」
クラッススは杯に口をつけずに、言葉を続けた。
「それと、さっきの“必要だと思った”は、もう剣闘士の目じゃない」
「……」
「お前はどこを抜けば相手が弱るか、どこを潰せば味方が勝つかを見ていた」
「“首を取る”じゃなく、“核を折る”を見ていた。立派な戦術の目だ」
セリスィンは、褒められても素直に受け取れなかった。
「でも、失敗した」
クラッススは即答する。
「失敗してない。お前が突いたのは頬だ。だが、周りは見ただろ。怪物に刃が届いた」
「“届く”は、勝ちの材料になる」
セリスィンは黙った。
確かに、あの一筋は周りの空気を変えた。自分でも分かった。
クラッススは次に、声を落とした。
「デキムスのやり方が……やりすぎだと俺も思う」
セリスィンの喉が鳴った。
「……じゃあ、なんで」
クラッススは視線を外さずに言う。
「止めるのは簡単じゃない。止めた瞬間、別の場所が割れる」
「だが放っておけば、お前みたいなのが折れる。——それも困る」
セリスィンは、思わず聞き返した。
「困る?」
クラッススは口元を少しだけ緩めた。
「困る。俺は“使える”ものを捨てたくない」
その言い方は冷たいのに、不思議と嫌じゃなかった。
闘技場で買われる“使える”とは違う。ここでは“勝ち筋”の話だ。
クラッススは続ける。
「セリスィン。テオトニクス。二人とも——俺の下に来ないか」
セリスィンは言葉を失った。
「……え」
クラッススは顎で、輪の中心を示す。テオトニクスが大声で笑っている。
「戦場で穴が空いた時、お前らは埋めた。中央も左翼もだ」
「俺はそういう手が欲しい。——俺の指揮の中に置きたい」
セリスィンは、すぐに「はい」と言えなかった。
デキムスの顔が浮かぶ。あの無言。あの刃。あの距離。
クラッススが追い打ちのように言う。
「今のお前には、剣を振る理由が要るだろ。俺の下なら、理由を“勝ち”として持てる」
「それに——お前が勝手に突っ込まないよう、俺が手綱を握れる」
セリスィンは、小さく笑ってしまった。
「……それ、監視ですか」
「監督だ」クラッススは平然と言った。「隊長格に必要なことだ」
セリスィンは息を吐き、ようやく頷いた。
「……分かりました」
「返事は、お前だけじゃ足りない」
クラッススが立ち上がり、輪の中心へ声を投げた。
「テオトニクス!」
「ん? 俺?」
テオトニクスが杯を掲げたまま振り返る。
「お前も来い。話がある」
「いまめっちゃええとこやのに!」と言いながら、テオトニクスは人をかき分けて来た。セリスィンの顔を見て、空気を読む。
「……なんや、真面目な顔やん」
クラッススが言う。
「俺の下に来い。お前ら二人まとめてだ」
テオトニクスは一瞬きょとんとして、次の瞬間ニヤッとした。
「ええんすか? 近衛兵から今度はクラッスス隊って、出世しすぎちゃいます?」
「調子に乗るな」クラッススは即座に返す。「乗るのは馬だけでいい」
テオトニクスが笑って、セリスィンを見る。
「お前、どうする?」
セリスィンは短く答えた。
「……行く」
テオトニクスは拳を握り、クラッススに突き出した。
「ほな、よろしく!」
クラッススは一拍だけ迷ってから、その拳に軽く合わせた。
「……よし。決まりだ」
宴の音が少し遠くなった。
セリスィンは杯を見下ろし、心の奥のざらつきが少しだけ形を変えるのを感じた。
アリオウィストゥスは逃げた。
妻は守れなかった。
甘さは消えていない。
それでも――戦いの中で、自分の居場所が一つ、動いた。
クラッススが最後に言った。
「勝った戦は、次の準備に使う。——冬営が来る。その前に、お前らの役目を決める」
セリスィンは頷いた。
「はい」
その返事は、昨日より少しだけまっすぐだった。




