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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第10章 そして、冬営へ
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勝ちきれなかったもの

「……結局、捕まえられなかったのか」


「逃げた。小舟だ」

「レーヌス河を渡って戻ったらしい」


追撃から戻った報が、淡々と積み上がっていく。

“怪物”アリオウィストゥスは、最後まで手の中には入らなかった。


「ローマは勝った」

「ゲルマーニーは川向こうへ押し返された」


結果だけ言えば、それで終わりだ。


――でも、セリスィンの中では終わっていなかった。


夜。勝利の宴。


火が焚かれ、酒が回り、兵の笑い声が戻る。

テオトニクスは案の定、輪の中心で杯を掲げていた。


「ほら見ぃ! 勝ったら飲む! 負けても飲む! せやけど今日は勝ったから飲む!」


「お前それ毎日飲む口実作ってるだけだろ!」

「口実がないと飲めへんのか、お前は!」


笑い声が跳ねる。


セリスィンはその輪の外にいた。座っている。杯は持っている。飲んでもいる。

でも顔は神妙なままだった。


(勝ったのに、逃した)

(刃は届いたのに、折れなかった)

(そして――)


あの女。デキムスの剣。止められなかった自分。


「……おい」


声がして顔を上げると、プブリウス・クラッスス――クラッスス・ジュニアが立っていた。宴の場でも背筋が伸びている。


「ここ、座っていいか」


「どうぞ」


クラッススは座り、少しだけ周りの騒ぎを見てから、単刀直入に言った。


「聞きたいことがある」


セリスィンは黙って頷く。


クラッススが言う。


「あの時、なぜ真っ直ぐアリオウィストゥスに向かった」


セリスィンは一拍置いた。

言い訳に聞こえるのが嫌だった。けれど、黙って飲み込むのも違う気がした。


「……必要だと思った」


「必要?」


「勝っても、あいつが“折れない”なら、また来る」

「戦は集団で勝つものだって分かってる。……でも、あいつの目が生きてる限り、終わってない気がした」


クラッススはセリスィンの顔を見たまま、静かに言った。


「だが、折れなかった、か」


「……折れなかった」


セリスィンは杯を握り直した。


「力の差を感じた。あんな化け物でも、結局は戦争としては数で押し返せる。押し返して勝った」

「でも、俺は個としてのあいつを倒せなかった」


クラッススが短く問う。


「それだけか」


セリスィンは息を吐く。


「……それだけじゃない」


クラッススは急かさない。待つ。


セリスィンが続ける。


「妻を……死なせた」

「目の前でデキムスが殺した。俺は止めたかった。止めるべきだった。止めたかったのに……止められなかった」


クラッススの目がわずかに細くなる。


「甘いと思うか」


セリスィンは、苦い声で答えた。


「……甘い」

「分かってるのに、まだ腹が立つ。まだ引っかかる」


クラッススは頷いた。


「いい」


セリスィンが顔を上げる。


「……いい、んですか」


「“引っかかる”のは、生きてる証拠だ。引っかからなくなったら、戦場で楽になる。だが、人としては——別の場所が死ぬ」


クラッススは杯に口をつけずに、言葉を続けた。


「それと、さっきの“必要だと思った”は、もう剣闘士の目じゃない」


「……」


「お前はどこを抜けば相手が弱るか、どこを潰せば味方が勝つかを見ていた」

「“首を取る”じゃなく、“核を折る”を見ていた。立派な戦術の目だ」


セリスィンは、褒められても素直に受け取れなかった。


「でも、失敗した」


クラッススは即答する。


「失敗してない。お前が突いたのは頬だ。だが、周りは見ただろ。怪物に刃が届いた」

「“届く”は、勝ちの材料になる」


セリスィンは黙った。

確かに、あの一筋は周りの空気を変えた。自分でも分かった。


クラッススは次に、声を落とした。


「デキムスのやり方が……やりすぎだと俺も思う」


セリスィンの喉が鳴った。


「……じゃあ、なんで」


クラッススは視線を外さずに言う。


「止めるのは簡単じゃない。止めた瞬間、別の場所が割れる」

「だが放っておけば、お前みたいなのが折れる。——それも困る」


セリスィンは、思わず聞き返した。


「困る?」


クラッススは口元を少しだけ緩めた。


「困る。俺は“使える”ものを捨てたくない」


その言い方は冷たいのに、不思議と嫌じゃなかった。

闘技場で買われる“使える”とは違う。ここでは“勝ち筋”の話だ。


クラッススは続ける。


「セリスィン。テオトニクス。二人とも——俺の下に来ないか」


セリスィンは言葉を失った。


「……え」


クラッススは顎で、輪の中心を示す。テオトニクスが大声で笑っている。


「戦場で穴が空いた時、お前らは埋めた。中央も左翼もだ」

「俺はそういう手が欲しい。——俺の指揮の中に置きたい」


セリスィンは、すぐに「はい」と言えなかった。

デキムスの顔が浮かぶ。あの無言。あの刃。あの距離。


クラッススが追い打ちのように言う。


「今のお前には、剣を振る理由が要るだろ。俺の下なら、理由を“勝ち”として持てる」

「それに——お前が勝手に突っ込まないよう、俺が手綱を握れる」


セリスィンは、小さく笑ってしまった。


「……それ、監視ですか」


「監督だ」クラッススは平然と言った。「隊長格に必要なことだ」


セリスィンは息を吐き、ようやく頷いた。


「……分かりました」


「返事は、お前だけじゃ足りない」


クラッススが立ち上がり、輪の中心へ声を投げた。


「テオトニクス!」


「ん? 俺?」

テオトニクスが杯を掲げたまま振り返る。


「お前も来い。話がある」


「いまめっちゃええとこやのに!」と言いながら、テオトニクスは人をかき分けて来た。セリスィンの顔を見て、空気を読む。


「……なんや、真面目な顔やん」


クラッススが言う。


「俺の下に来い。お前ら二人まとめてだ」


テオトニクスは一瞬きょとんとして、次の瞬間ニヤッとした。


「ええんすか? 近衛兵から今度はクラッスス隊って、出世しすぎちゃいます?」


「調子に乗るな」クラッススは即座に返す。「乗るのは馬だけでいい」


テオトニクスが笑って、セリスィンを見る。


「お前、どうする?」


セリスィンは短く答えた。


「……行く」


テオトニクスは拳を握り、クラッススに突き出した。


「ほな、よろしく!」


クラッススは一拍だけ迷ってから、その拳に軽く合わせた。


「……よし。決まりだ」


宴の音が少し遠くなった。

セリスィンは杯を見下ろし、心の奥のざらつきが少しだけ形を変えるのを感じた。


アリオウィストゥスは逃げた。

妻は守れなかった。

甘さは消えていない。


それでも――戦いの中で、自分の居場所が一つ、動いた。


クラッススが最後に言った。


「勝った戦は、次の準備に使う。——冬営が来る。その前に、お前らの役目を決める」


セリスィンは頷いた。


「はい」


その返事は、昨日より少しだけまっすぐだった。

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