非情
追撃は、終わり方が見えないまま長く続いた。
「まだ走れるか!」
「走れ! 止まったら置いていくぞ!」
ゲルマーニーは敗走しながら、次から次へと倒れていった。
倒れていくのは“兵”だけじゃない。荷、車、旗、声——誇りそのものが地面に落ちていく。
セリスィンは息を吐いて、また前へ出る。
追う側の足音が増えるほど、胸の奥が冷える。勝っているのに、冷える。
そこへ一報が飛び込んだ。
「報告! アリオウィストゥスの——娘一人と、妻一名、殺害!」
伝令の声は事実だけを置いていく。
周りの兵が「よし」とは言わない。ただ、追撃の速度が少し上がる。王の背中に刃が近づいた証拠だからだ。
セリスィンだけが、足の裏に嫌な感じを残した。
「……敵でも、嫌なもんは嫌だ」
テオトニクスが横で短く言う。
「せやけど、追っかけっこは“そうなる”やろ」
「向こうも車に女乗せて鼓舞しとった。戦の中に置いたら、戦の中で死ぬ」
正しい。正しいのに、胃が気持ち悪い。
セリスィンは返事をしなかった。
二、三日は走った気がする。
追い打ちをかけるたびに、距離は勝手に膨れていった。いつの間にか四十、五十キロ。
「……どこまで逃げるつもりだ」
クラッスス・ジュニアが言うと、ペディウスが吐き捨てる。
「逃げるのが上手い奴ほど厄介だ。——だが、逃げる奴は疲れる」
デキムスは言葉を挟まない。馬上で、ただ前だけを見る。
追撃は彼の顔を変えない。
そしてその途中、隊の先が妙な“塊”にぶつかった。
戦士だけじゃない。女と子どもがいる。
逃げ遅れた、というより“逃げてきた”集団。
「止まれ!」
槍が向く。子どもが泣き声を上げる。女が前へ出ようとして、押し戻される。
ヘドゥイーの者が前に出て、ガリア語で問いかけた。返ってきた言葉を聞いて、顔色を変える。
「……閣下、いや、将軍方。こいつら——アリオウィストゥスの、もう一人の妻と娘らしい」
空気が一段落ちた。
“王の家族”は、戦場ではただの捕虜じゃない。矢にも盾にもなる。
デキムスが馬から降り、剣を抜いた。抜き方が静かすぎて怖い。
「どこだ」
通訳越しに女へ突きつける。
「アリオウィストゥスはどこにいった」
女は答えない。娘も答えない。
泣きもしない。ただ、目だけが硬い。
デキムスが一歩詰める。
「お前が黙るほど、お前らの首は安くなる」
女が初めて口を開いた。声は小さいのに、折れていない。通訳が訳す。
「言いません」
「私は——彼と出会って幸せでした」
セリスィンの胸が、きゅっと縮んだ。
敵の妻であっても、言葉は言葉として刺さる。
デキムスは一拍、女を見てから言った。
「……そうか」
次の瞬間、剣が走った。
迷いのない、短い一閃。
女の身体が崩れ落ちる。娘が息を呑み、声にならない声を漏らす。
周囲の兵も、ほんの一拍だけ固まった。
セリスィンの中で、何かが切れた。
「……っ、おい!」
怒鳴り声が遅れて出る。
デキムスの視線が、今度は娘へ滑る。刃が、わずかに上がる気配。
セリスィンは反射で前に出た。
「やめろ!」
デキムスの軌道に割って入り、娘の前に立つ。
デキムスはセリスィンを見ないまま言った。
「どけ」
「どかない」
「お前、また“戦場の外”を持ち込む気か」
「外じゃない。——中だ。中にいるのはお前の方だろ」
テオトニクスが慌てて間に入る。
「おいおいおい、また始まるんか!」
クラッスス・ジュニアも馬から降り、声を荒げた。
「やめろ! 今それやってる場合じゃない!」
だがセリスィンは退かなかった。
デキムスも退かない。視線がぶつからないのに、刃だけがぶつかる。
「罰するなら俺を罰しろ」
セリスィンが言う。
デキムスが低く返す。
「俺が罰を決める立場じゃねぇ。——だが俺が止める立場だ」
「止めるなら、そっちを止めろ!」
刃が、互いの刃へ寄っていく。
また喧嘩が勃発する、その一歩手前。
そこへ、軽い足音が入った。
「おいおい」
カエサルだった。血と土の中でも、妙に軽い声。
「追撃中に決闘か? 元剣闘士らしいね」
セリスィンが息を飲む。デキムスの刃が一瞬止まる。
カエサルは笑って、わざと火をくべるように言った。
「戦え戦え。——どうせなら、勝った方が責任を持て」
「女と子どもを斬る責任か? 守る責任か? どっちでもいい。勝った方が背負え」
その言い方が、逆に冷や水だった。
“勝った方が背負え”は、喧嘩を遊びにしない言葉だ。
テオトニクスが叫ぶ。
「閣下、冗談きついっす! 今は追撃や!」
クラッスス・ジュニアも噛みつく。
「閣下、止めてください!」
カエサルは肩をすくめた。
「止めてるよ。——お前らが止めたいなら止めろ。俺は追う」
その一言で、空気が現実へ戻った。
ペディウスがデキムスの前へ出る。
「デキムス。刃を収めろ。——今は王だ」
テオトニクスがセリスィンの腕を掴む。
「セリスィン。お前もや。……今ここで割れたら、ほんまに終わる」
セリスィンは歯を食いしばり、剣を下げた。
デキムスも、遅れて剣先を落とす。
カエサルが娘を一瞥して言った。
「殺すな。捕虜だ。——鎖をつけろ、だが乱暴はするな。情報は口じゃなく足で運ばせる」
兵が動き、娘は泣き声を堪えたまま連れて行かれる。
女は最後まで、デキムスもセリスィンも見なかった。ただ前を向いていた。
テオトニクスが、セリスィンの耳元で囁く。
「……お前、またデキムスとやり合うとこやったぞ」
セリスィンは息を吐く。
「……あいつが、女と子どもを“壁”としてしか見えないなら、俺は——」
「分かる。分かるけど、今は追うんや」
テオトニクスが強く言う。
「怪物を止めな、これがずっと続く」
セリスィンは前を見る。
逃げる王。逃げる軍。追うローマ。捕虜の列。
終わっていない。
むしろ“終わらせ方”が問われ始めている。
カエサルが前方へ声を投げた。
「行くぞ。追撃を続ける!」
その声で隊が動き出す。
セリスィンは剣を握り直し、走り出した。
冬営へ向かう道は、まだ血で濡れていた。




