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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第10章 そして、冬営へ
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敗走

頬に届いた刃のあと、セリスィンの世界は“次の一手”だけになっていた。


(もう一度入る。今度は——)


そう思った瞬間、戦いが急に打ち切られた。


アリオウィストゥスの周りが、にわかに騒がしくなる。護衛の一人が駆け寄って耳打ちした。別の者が遠くを指し示す。馬のいななきが混ざり、車列の上の叫びが変な方向へ流れた。


アリオウィストゥスは一言、何かを吐き捨てた。言葉は分からない。だが「終わりだ」という調子だけは分かった。


そして踵を返す。


「待て——!」


セリスィンが声を出した時には、もう遅かった。


女たちと、近衛兵が“壁”になって前に出る。車輪の砦の内側へ、王を引き戻す動き。

泣き声と叫びが盾のように混ざり、目の前が一瞬、刃を入れづらい色に変わる。


テオトニクスが叫ぶ。


「セリスィン、行くな! そこ、飲まれる!」


だがデキムスは止まらなかった。


馬上から鋭く刃を走らせ、近衛兵の腕を落とす。間合いの中にいるものを、区別せずに“戦場の素材”として切っていく。


その刃が——女の腕にまで届いた。


短い悲鳴。血。膝が崩れる。


セリスィンの喉が詰まった。


「やめろ……!」


言いたい。叫びたい。だが言葉が出る前に、次の槍が飛んでくる。次の盾が押してくる。

“やめろ”と言っている暇がない。ここはもう、誰かの正しさで止まる場じゃない。


デキムスはセリスィンを見ない。何も言わない。

ただ、前を切る。


(これは戦争だ)

そういう無言の圧だけが来る。


そして、状況はすぐに形になった。


右が押している。中央も戻した。左も盛り返した。

その“全体の圧”が、いまここに届いている。


ゲルマーニーが、崩れ始めたのだ。


叫びの質が変わる。

“攻める叫び”から、“逃げる叫び”へ。


車列の後ろが動き、囲いだったはずの車が“退路”に変わる。

戦陣の後ろを囲んで逃げ道を消していたはずが、その囲いが今度は逃走の邪魔になる。押し合い、押し退き、足が絡み、崩れが崩れを呼ぶ。


王の周りが慌ただしくなるのは当然だった。

全軍が逃走へ移れば、王だけが残って“美しく死ぬ”わけがない。


アリオウィストゥスも逃げる。怪物も、勝てない時は逃げる。

それが分かった瞬間、セリスィンの胸に、冷たい現実が落ちた。


(折れたんじゃない。逃げただけだ)


そこへクラッスス・ジュニアの声が飛んだ。


「いくぞ、追うぞ!」


馬上で周囲を見回し、精鋭に合図する。


「逃がすな! 王を追え!」


ペディウスが即座に反応した。


「騎兵、前へ! 隊形を崩すな、ばらけるな!」


テオトニクスが息を吐く。


「追いかけっこ、得意やないねんけどな……!」


セリスィンは言った。


「得意不得意じゃない。——終わらせる」


デキムスは相変わらず何も言わず、馬首を返して追撃の列に入った。

セリスィンはその背中を一瞬だけ見た。あの刃の冷たさが、追撃では味方の速さになる。


追撃の途中、倒れた車と荷の間で、ローマの兵が叫んだ。


「人がいる! 縛られてる!」


「誰だ!」


セリスィンが駆け寄ると、そこにいたのは——ローマ人だった。

顔は泥と涙でぐしゃぐしゃ。だが目は、必死に生きている。


「……プロキルス!」


ガイウス・ウァレリウス・プロキルス。


三重の鎖で結びつけられていた。手首、腰、足。まるで“逃げる”という概念ごと封じる縛り方。


クラッスス・ジュニアが叫ぶ。


「切れ! 鎖を切れ!」


兵が工具を持って飛び込む。金属が軋み、鎖が外れる。


プロキルスは解放された瞬間、膝から崩れ落ちた。息が荒い。半べそというより、もう泣く力すら残っていない顔だ。


「生きてたか」


ペディウスが言うと、プロキルスは首を振りながら、言葉を吐き出した。


「何度も……死を覚悟した……!」


「何があった」クラッスス・ジュニア。


プロキルスは喉を鳴らし、涙と泥を拭うこともできずに続けた。


「すぐ焼き殺すか……暫くそのままにするか……」

「目の前で……三度も籤を引かれた……!」


セリスィンの背中が、ひやりとした。

籤。占い。新月。昨日聞いた話が、ここで“人の命の処理”として出てくる。


プロキルスは震える声で言った。


「籤のおかげで……なんとか事なきを得た……!」


テオトニクスが、噛み殺すように言った。


「……運で生かして、見世物みたいに縛っとったんか」


セリスィンは何も言えなかった。怒りも嫌悪も、追いつかない。


そこへ別の兵が叫ぶ。


「もう一人だ! こっちにも縛られてる!」


「マエクティウスだ!」


マルクス・マエクティウスも見つかった。こちらも拘束され、顔色が死人みたいに白い。

だが生きている。目が合う。


「……生きてるぞ」

誰かがそう言った時、セリスィンは初めて「勝った」という言葉の意味を少しだけ掴んだ。


勝つとは、敵を倒すことだけじゃない。

“奪われた味方”が戻ってくることでもある。


クラッスス・ジュニアが周囲に命じる。


「二人を連れて戻れ! 追撃は続ける、だが運べる速度で運べ!」


ペディウスが頷く。


「護衛をつける。落とすな」


セリスィンはプロキルスの鎖の痕を見た。皮膚が擦り切れ、赤黒くなっている。


プロキルスが、セリスィンの顔を見て、かすれた声で言った。


「……助けに来てくれたのか」


セリスィンは短く返した。


「たまたまだ」


その返事は、誇りのためじゃない。

ここまで歩いてきた結果として、ただそう言うしかなかった。


そして追撃の列の先では、車輪の奥の怪物が——まだ逃げている。


(終わってない)


セリスィンは剣を握り直し、前を向いた。

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