敗走
頬に届いた刃のあと、セリスィンの世界は“次の一手”だけになっていた。
(もう一度入る。今度は——)
そう思った瞬間、戦いが急に打ち切られた。
アリオウィストゥスの周りが、にわかに騒がしくなる。護衛の一人が駆け寄って耳打ちした。別の者が遠くを指し示す。馬のいななきが混ざり、車列の上の叫びが変な方向へ流れた。
アリオウィストゥスは一言、何かを吐き捨てた。言葉は分からない。だが「終わりだ」という調子だけは分かった。
そして踵を返す。
「待て——!」
セリスィンが声を出した時には、もう遅かった。
女たちと、近衛兵が“壁”になって前に出る。車輪の砦の内側へ、王を引き戻す動き。
泣き声と叫びが盾のように混ざり、目の前が一瞬、刃を入れづらい色に変わる。
テオトニクスが叫ぶ。
「セリスィン、行くな! そこ、飲まれる!」
だがデキムスは止まらなかった。
馬上から鋭く刃を走らせ、近衛兵の腕を落とす。間合いの中にいるものを、区別せずに“戦場の素材”として切っていく。
その刃が——女の腕にまで届いた。
短い悲鳴。血。膝が崩れる。
セリスィンの喉が詰まった。
「やめろ……!」
言いたい。叫びたい。だが言葉が出る前に、次の槍が飛んでくる。次の盾が押してくる。
“やめろ”と言っている暇がない。ここはもう、誰かの正しさで止まる場じゃない。
デキムスはセリスィンを見ない。何も言わない。
ただ、前を切る。
(これは戦争だ)
そういう無言の圧だけが来る。
そして、状況はすぐに形になった。
右が押している。中央も戻した。左も盛り返した。
その“全体の圧”が、いまここに届いている。
ゲルマーニーが、崩れ始めたのだ。
叫びの質が変わる。
“攻める叫び”から、“逃げる叫び”へ。
車列の後ろが動き、囲いだったはずの車が“退路”に変わる。
戦陣の後ろを囲んで逃げ道を消していたはずが、その囲いが今度は逃走の邪魔になる。押し合い、押し退き、足が絡み、崩れが崩れを呼ぶ。
王の周りが慌ただしくなるのは当然だった。
全軍が逃走へ移れば、王だけが残って“美しく死ぬ”わけがない。
アリオウィストゥスも逃げる。怪物も、勝てない時は逃げる。
それが分かった瞬間、セリスィンの胸に、冷たい現実が落ちた。
(折れたんじゃない。逃げただけだ)
そこへクラッスス・ジュニアの声が飛んだ。
「いくぞ、追うぞ!」
馬上で周囲を見回し、精鋭に合図する。
「逃がすな! 王を追え!」
ペディウスが即座に反応した。
「騎兵、前へ! 隊形を崩すな、ばらけるな!」
テオトニクスが息を吐く。
「追いかけっこ、得意やないねんけどな……!」
セリスィンは言った。
「得意不得意じゃない。——終わらせる」
デキムスは相変わらず何も言わず、馬首を返して追撃の列に入った。
セリスィンはその背中を一瞬だけ見た。あの刃の冷たさが、追撃では味方の速さになる。
追撃の途中、倒れた車と荷の間で、ローマの兵が叫んだ。
「人がいる! 縛られてる!」
「誰だ!」
セリスィンが駆け寄ると、そこにいたのは——ローマ人だった。
顔は泥と涙でぐしゃぐしゃ。だが目は、必死に生きている。
「……プロキルス!」
ガイウス・ウァレリウス・プロキルス。
三重の鎖で結びつけられていた。手首、腰、足。まるで“逃げる”という概念ごと封じる縛り方。
クラッスス・ジュニアが叫ぶ。
「切れ! 鎖を切れ!」
兵が工具を持って飛び込む。金属が軋み、鎖が外れる。
プロキルスは解放された瞬間、膝から崩れ落ちた。息が荒い。半べそというより、もう泣く力すら残っていない顔だ。
「生きてたか」
ペディウスが言うと、プロキルスは首を振りながら、言葉を吐き出した。
「何度も……死を覚悟した……!」
「何があった」クラッスス・ジュニア。
プロキルスは喉を鳴らし、涙と泥を拭うこともできずに続けた。
「すぐ焼き殺すか……暫くそのままにするか……」
「目の前で……三度も籤を引かれた……!」
セリスィンの背中が、ひやりとした。
籤。占い。新月。昨日聞いた話が、ここで“人の命の処理”として出てくる。
プロキルスは震える声で言った。
「籤のおかげで……なんとか事なきを得た……!」
テオトニクスが、噛み殺すように言った。
「……運で生かして、見世物みたいに縛っとったんか」
セリスィンは何も言えなかった。怒りも嫌悪も、追いつかない。
そこへ別の兵が叫ぶ。
「もう一人だ! こっちにも縛られてる!」
「マエクティウスだ!」
マルクス・マエクティウスも見つかった。こちらも拘束され、顔色が死人みたいに白い。
だが生きている。目が合う。
「……生きてるぞ」
誰かがそう言った時、セリスィンは初めて「勝った」という言葉の意味を少しだけ掴んだ。
勝つとは、敵を倒すことだけじゃない。
“奪われた味方”が戻ってくることでもある。
クラッスス・ジュニアが周囲に命じる。
「二人を連れて戻れ! 追撃は続ける、だが運べる速度で運べ!」
ペディウスが頷く。
「護衛をつける。落とすな」
セリスィンはプロキルスの鎖の痕を見た。皮膚が擦り切れ、赤黒くなっている。
プロキルスが、セリスィンの顔を見て、かすれた声で言った。
「……助けに来てくれたのか」
セリスィンは短く返した。
「たまたまだ」
その返事は、誇りのためじゃない。
ここまで歩いてきた結果として、ただそう言うしかなかった。
そして追撃の列の先では、車輪の奥の怪物が——まだ逃げている。
(終わってない)
セリスィンは剣を握り直し、前を向いた。




