車輪の奥の目
アリオウィストゥスの目を捉えた瞬間から、セリスィンの中で戦場の形が変わった。
(あれを折らないと終わらない)
線を押し返すとか、陣を保つとか——そういう“勝ち方”の先に、まだ終わらないものが立っている。
セリスィンは前へ出た。出た、ではない。勝手に足が急いだ。
「おい、セリスィン!」
テオトニクスの声が背中に当たる。
「どうしたんや、急に!」
セリスィンは振り返らない。
「……あいつだ」
「は?」
「見てた。——車の奥から」
テオトニクスが一瞬だけそっちを見る。確かに車列の奥、あの位置に“でかい影”があるのが分かる。
「だからって、お前——!」
テオトニクスが腕を掴もうとしたが、セリスィンは半身をずらして抜けた。
「止めるな」
「止めるわ! それ、突っ込んで死ぬ動きや!」
「死ぬなら、あそこだ」
テオトニクスが舌打ちする。
「……ほんまに、めんどい正義感やな」
そう言いながらも、足は止めない。止めたらセリスィンが消えるのを知っているからだ。
少し先へ抜けると、視界が開けた。
土が踏み固められ、死体も荷も少ない“空白”がある。
空白の先に、車列の一角が見えた。戦陣の後ろを囲っていた車輪の砦、その中心に近い場所。
——アリオウィストゥスの車。
飾り立てた車ではない。だが周りの護衛の厚みが違う。
守っているというより、そこが“核”だと分かる立ち方をしている。
セリスィンが空白へ出た瞬間、向こうの視線が一斉に刺さった。
護衛が首を向け、女たちの叫びが一瞬止まる。
アリオウィストゥスもこちらを見た。動かない。
動かないまま、状況を飲み込む目だ。
セリスィンは息を吐き、間合いを詰めた。
「——っ!」
突撃。
一対一の闘技場の突撃じゃない。
“核”へ刺すための、一直線の突撃だ。
「セリスィン!」
テオトニクスが怒鳴る。「待て——!」
待てるわけがない。待ったら、また線の戦いに戻される。
セリスィンは剣を上げた。
護衛隊が動いた。
「来るぞ!」とテオトニクス。
「分かってる!」
護衛は迷わない。数で潰す。
一人が槍を突き、二人が横から回り、三人目が盾で押し、四人目が足を狙う。
開けた場所は、純粋に数の力が強い。
線を作れない場所で、二人は“点”になる。
セリスィンは一人を切り伏せたが、その一拍で背中に圧が乗る。
テオトニクスが割って入り、盾で叩き返す。
「お前、一直線すぎや!」
「一直線じゃないと届かない!」
「届く前に潰れる言うてんねん!」
言い合っている暇はない。だが言葉がないと息が切れる。
セリスィンの足が押し戻される。
あと数歩で車に触れる距離なのに、その数歩が“数の壁”になっている。
テオトニクスが歯を食いしばる。
「……これ、なかなかえぐいんちゃうか!」
セリスィンは息を吐いた。胸の中でようやく冷静が戻ってくる。
(早かったか)
“折る”のは正しい。だが、折りに行く順番を間違えた。
この場所は二人で裂ける場所じゃない。
護衛の槍がまた来る。セリスィンは受けた。受けた瞬間、肩が痺れる。
テオトニクスが横から蹴りを入れ、空間を作る。
「下がれ!」テオトニクスが叫ぶ。
「下がったら——」
「死ぬよりマシや!」
その叫びが終わる前に、別の音が入った。
蹄。
土を裂く速い音が、横合いから近づいてくる。
クラッスス・ジュニアだった。状況を見て顔色が変わっている。
「あいつら、何してんだよ!」
怒鳴りながら、後ろへ指示を飛ばす。
「騎兵! 回り込め! この二人を抜けさせるな、支えろ!」
騎兵が動く。槍が光る。
護衛隊が一瞬だけ視線を散らす。数の圧が、ほんのわずか緩む。
セリスィンはその隙を見逃さなかった。
だが同時に思った。
(それでも足りない)
護衛の数はまだ厚い。車の周りの“核”は揺れていない。
「セリスィン!」
テオトニクスがセリスィンの肩を叩く。「見ろ!」
逆サイド。空白の向こうから、もう一つの騎兵の塊が突っ込んでくるのが見えた。
速度が違う。迷いがない。一直線に“割る”ための速度。
先頭の影が、鎧の光を弾いた。
——デキムス。
その横に、数名の部下。第十の顔も混じっている。
彼らは叫ばない。叫ぶ代わりに、隊形のまま刺さる。
デキムスの目が一瞬だけこちらを掠めた。
セリスィンと視線が合ったかどうか、確信できないほど短い。だが、背中に冷たい確かさが走る。
(お前にはまだ早い、そう言わんばかりの顔だな)
テオトニクスが、息を吐くように笑った。
「……あいつ、嫌なとこで頼りになるやつやな」
セリスィンは、押し戻されかけた足にもう一度力を入れた。
前に出る理由が、今度は“独りの熱”じゃない。
数が来た。線が来た。
そして、車輪の奥の怪物は——まだ動かない。




