熱波
左翼に着いた瞬間、空気が重かった。
盾の縁がずれている。叫びが散っている。足が後ろへ逃げている。
“押されている”というのは、数や力の話じゃない。呼吸の話だとセリスィンは分かり始めていた。
「遅いぞ!」
誰かが怒鳴る。だが怒鳴り声に芯がない。芯がない怒鳴りは焦りを増やすだけだ。
クラッスス・ジュニアが馬上から一瞬で見抜いた。
「第三列が機能していない」
ペディウスが横で言う。
「穴が埋まってない。押された時の“壁”がない」
セリスィンとテオトニクスは馬から降りる暇も惜しんで、すぐ前線へ混じった。
鞍から飛び降り、盾を構え、剣を抜く。
「来い!」
テオトニクスが叫ぶ。いつもの盛り上げ役の声ではない。
味方の足を止めるための声だ。
セリスィンは一歩だけ前へ出た。
前へ出ることで、後ろの足が止まる。止まった足が、盾を揃える。盾が揃うと、線が戻る。
「盾、合わせろ!」
テオトニクスの声に、周りの兵が反射で動く。
「押すな! 切れ! 足を前に出せ!」
セリスィンは相手の槍を受け、腕ではなく肩で押し返し、剣で“崩れる場所”だけを切った。
倒すためではなく、並びを崩すため。
その後ろで、クラッスス・ジュニアが第三列へ突っ込んだ。
「お前ら、何をしている!」
三列目の兵は、前の混乱に引っ張られて固まっていた。
「入れ」と命令される前に入ってしまうのが怖い。
「入れ」と命令されても入れないのがもっと怖い。
クラッスス・ジュニアは怒鳴るだけでは終わらせない。
位置を変えた。列をつくり直した。
「間隔を詰めろ! 盾を揃えろ! 前が割れたら、ここが埋める!」
「お前、そこじゃない。お前は“穴”だ!」
指示が具体的で、容赦がない。
貴族の命令ではなく、百人隊長の命令みたいな精度だった。
ペディウスが横から補助する。
「誰が迷ってる! 迷ってる奴を列の端に回せ!」
「端が折れたら全体が折れる! 端に強いのを置け!」
第三列が、ようやく“機能”し始める。
機能し始めた瞬間、左翼の呼吸が変わった。
「——押し返せる!」
誰かが叫んだ。
さっきまで押されていたのが嘘みたいに、線が戻る。
戻った線は、今度は少しずつ前へ出る。
セリスィンは汗の中で、目の前の敵が“引く”気配を感じた。
引くのは恐れではない。形が崩れたからだ。
テオトニクスが笑った。
「ほら見ぃ! やれるやんけ!」
その声に、味方の顔が生き返る。
“やれる”という言葉が、槍より効く瞬間がある。
噂は、戦場でも速い。
中央で指揮を執るラビエヌスのもとに伝令が走る。
「左翼、持ち直しました! 第三列が立ちました!」
ラビエヌスは短く言った。
「よし」
右翼、カエサルのところにも報が届く。
「左翼が盛り返していると!」
カエサルは振り返りもせずに言った。
「当然。ジュニアならやるさ」
その一言が、右翼の兵にも火をつける。
全体の勝ち筋が見え始めると、剣は軽くなる。
同じ右翼にいたデキムスが、ふん、と鼻を鳴らした。
それだけで何を思ったかは分からない。だが、目は戦場を数えていた。
左翼。
隊列の立て直しの合間に、クラッスス・ジュニアは一度だけ視線を前線へ送った。
セリスィンとテオトニクス。
二人を中心に、熱波が生まれている。
熱波――剣が熱いのではない。声と動きが熱い。
そこにいる兵が、引かずに踏ん張る熱だ。
(新しい世代だ)
クラッスス・ジュニアの背筋が、ぞくりと震えた。
貴族でもない。平民でもない。
剣闘士の二人が、軍の線を押し返している。
“身分”ではなく、“機能”で戦場が動く。
それを目の前で見た。
左翼もだいぶ押し込んだ、その時。
セリスィンは、視線を感じた。
視線の方向は前ではない。
もっと奥——車列のあたり。女たちが叫び、車輪が壁になっている場所。
セリスィンは息を止めた。
そこにいた。
車の奥、壁の向こうの高い位置で、ゲルマーニーの怪物――アリオウィストゥスが、こちらを見ていた。
遠いのに近い目。
戦っていないのに、戦っている目。
セリスィンは剣を握る手に力が入るのを感じた。
剣のためではない。目のために。
(あいつが、見ている)
テオトニクスが横から言う。
「セリスィン、前!」
だがセリスィンの視線は一瞬だけ戻らなかった。
怪物の目が、自分の内側まで測ってくる気がしたからだ。
そしてセリスィンは理解する。
この戦いは、押し返したら終わりじゃない。
“あの目”が折れるまで終わらない。




