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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第10章 そして、冬営へ
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熱波

左翼に着いた瞬間、空気が重かった。


盾の縁がずれている。叫びが散っている。足が後ろへ逃げている。

“押されている”というのは、数や力の話じゃない。呼吸の話だとセリスィンは分かり始めていた。


「遅いぞ!」


誰かが怒鳴る。だが怒鳴り声に芯がない。芯がない怒鳴りは焦りを増やすだけだ。


クラッスス・ジュニアが馬上から一瞬で見抜いた。


「第三列が機能していない」


ペディウスが横で言う。


「穴が埋まってない。押された時の“壁”がない」


セリスィンとテオトニクスは馬から降りる暇も惜しんで、すぐ前線へ混じった。

鞍から飛び降り、盾を構え、剣を抜く。


「来い!」


テオトニクスが叫ぶ。いつもの盛り上げ役の声ではない。

味方の足を止めるための声だ。


セリスィンは一歩だけ前へ出た。

前へ出ることで、後ろの足が止まる。止まった足が、盾を揃える。盾が揃うと、線が戻る。


「盾、合わせろ!」


テオトニクスの声に、周りの兵が反射で動く。


「押すな! 切れ! 足を前に出せ!」


セリスィンは相手の槍を受け、腕ではなく肩で押し返し、剣で“崩れる場所”だけを切った。

倒すためではなく、並びを崩すため。


その後ろで、クラッスス・ジュニアが第三列へ突っ込んだ。


「お前ら、何をしている!」


三列目の兵は、前の混乱に引っ張られて固まっていた。

「入れ」と命令される前に入ってしまうのが怖い。

「入れ」と命令されても入れないのがもっと怖い。


クラッスス・ジュニアは怒鳴るだけでは終わらせない。

位置を変えた。列をつくり直した。


「間隔を詰めろ! 盾を揃えろ! 前が割れたら、ここが埋める!」

「お前、そこじゃない。お前は“穴”だ!」


指示が具体的で、容赦がない。

貴族の命令ではなく、百人隊長の命令みたいな精度だった。


ペディウスが横から補助する。


「誰が迷ってる! 迷ってる奴を列の端に回せ!」

「端が折れたら全体が折れる! 端に強いのを置け!」


第三列が、ようやく“機能”し始める。

機能し始めた瞬間、左翼の呼吸が変わった。


「——押し返せる!」


誰かが叫んだ。


さっきまで押されていたのが嘘みたいに、線が戻る。

戻った線は、今度は少しずつ前へ出る。


セリスィンは汗の中で、目の前の敵が“引く”気配を感じた。

引くのは恐れではない。形が崩れたからだ。


テオトニクスが笑った。


「ほら見ぃ! やれるやんけ!」


その声に、味方の顔が生き返る。

“やれる”という言葉が、槍より効く瞬間がある。


噂は、戦場でも速い。


中央で指揮を執るラビエヌスのもとに伝令が走る。


「左翼、持ち直しました! 第三列が立ちました!」


ラビエヌスは短く言った。


「よし」


右翼、カエサルのところにも報が届く。


「左翼が盛り返していると!」


カエサルは振り返りもせずに言った。


「当然。ジュニアならやるさ」


その一言が、右翼の兵にも火をつける。

全体の勝ち筋が見え始めると、剣は軽くなる。


同じ右翼にいたデキムスが、ふん、と鼻を鳴らした。

それだけで何を思ったかは分からない。だが、目は戦場を数えていた。


左翼。


隊列の立て直しの合間に、クラッスス・ジュニアは一度だけ視線を前線へ送った。


セリスィンとテオトニクス。

二人を中心に、熱波が生まれている。


熱波――剣が熱いのではない。声と動きが熱い。

そこにいる兵が、引かずに踏ん張る熱だ。


(新しい世代だ)


クラッスス・ジュニアの背筋が、ぞくりと震えた。


貴族でもない。平民でもない。

剣闘士の二人が、軍の線を押し返している。


“身分”ではなく、“機能”で戦場が動く。

それを目の前で見た。


左翼もだいぶ押し込んだ、その時。


セリスィンは、視線を感じた。


視線の方向は前ではない。

もっと奥——車列のあたり。女たちが叫び、車輪が壁になっている場所。


セリスィンは息を止めた。


そこにいた。


車の奥、壁の向こうの高い位置で、ゲルマーニーの怪物――アリオウィストゥスが、こちらを見ていた。


遠いのに近い目。

戦っていないのに、戦っている目。


セリスィンは剣を握る手に力が入るのを感じた。

剣のためではない。目のために。


(あいつが、見ている)


テオトニクスが横から言う。


「セリスィン、前!」


だがセリスィンの視線は一瞬だけ戻らなかった。

怪物の目が、自分の内側まで測ってくる気がしたからだ。


そしてセリスィンは理解する。


この戦いは、押し返したら終わりじゃない。

“あの目”が折れるまで終わらない。

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