左翼へ
戦況は極端だった。
右翼――カエサルが入った側は、敵の弱点である左翼へ深く刺さっている。
ローマ優勢。押しているというより、相手の形を壊しながら前へ進んでいる。
中央――さっきまで沈みかけていた線は、セリスィンとテオトニクスが入ったことで持ち直し、今は逆に押し返している。
ゲルマーニー優勢から、ローマ優勢へ。わずかな差だが、差がつけば一気に崩れる種類の差。
だが――左翼。
敵の右翼が、ローマの左翼を押していた。
「左翼がだいぶ押されています!」
伝令の声が裂ける。
盾が鳴り、叫びが重なり、左の方角だけ音の色が違う。沈む音だ。
その報は、右翼のカエサルに届くのも早かった。
「左翼が押されている?」
カエサルは一瞬だけ戦場全体を見渡した。目だけで線を描き直す。
そして即断した。
「プブリウス!」
クラッスス・ジュニアが顔を上げる。
「左翼を頼む」
「了解!」
カエサルは続けざまにペディウスへ向けて言う。
「ペディウス。ジュニアの補助を頼んだ」
ペディウスが頷く。
「任せろ」
クラッスス・ジュニアが馬首を返しかけて、ふっと止まった。
「閣下。一つ頼み、聞いてくれないか」
カエサルは半歩だけ近づき、軽く顎を上げる。
「言え」
クラッスス・ジュニアは戦場の中央を顎で示した。
セリスィンとテオトニクス。二人が入ってから、線が戻った場所。
「あの二人――セリスィンとテオトニクスも連れて行っていいか?」
カエサルは一瞬、目を細めた。計算する目。
次の瞬間、口元だけで笑った。
「好きにしろ。勝つために」
「感謝する」
クラッスス・ジュニアは馬を蹴った。
中央。
セリスィンは盾の縁で相手の槍を弾き、足を一歩だけ前に置いた。
置いた瞬間に味方が詰める。線が太くなる。
テオトニクスが叫ぶ。
「今や! 押し返せ!」
その声に合わせて、ローマの列が息を揃える。
そこへ、鎧の音を切ってクラッスス・ジュニアが飛び込んできた。
「お前ら!」
セリスィンが振り向く前に、クラッスス・ジュニアが短く言い切った。
「左翼だ。サポートに来い」
テオトニクスが一瞬で理解する。
「左翼が押されとるんか」
「押されてる」
クラッスス・ジュニアは視線を左へ投げる。
「このままじゃ割れる」
セリスィンは頷き、すぐ聞き返した。
「……でも、どうやって左翼まで行く。ここから走ったら線が崩れる」
「崩さない」
クラッスス・ジュニアが即答する。
「“運ぶ”」
テオトニクスが眉を上げた。
「運ぶ?」
「こうや」
クラッスス・ジュニアは馬を寄せ、セリスィンの腕を掴む。
「え——」
セリスィンが言い終える前に、クラッスス・ジュニアは力任せに引き上げた。
鎧の重さが一瞬で宙に浮く。馬の背が近い。セリスィンは鞍の縁に手をかけ、歯を食いしばって跨った。
「馬、大丈夫かよ!」
思わず出た声に、クラッスス・ジュニアが笑いながら返す。
「少しの間なら耐えれるわ。うちの馬をなめんなよ」
同時に、ペディウスがテオトニクスへ馬を寄せた。
「お前も来い」
「おいおい、俺もかい!」
「黙って乗れ。落ちたら引きずるぞ」
「ひでぇ!」
それでもテオトニクスは器用に鞍へ上がった。
さっきまで“騎兵ごっこ”していたのとは違う。今は戦場の馬だ。
ペディウスが短く言う。
「掴まれ。揺れたら骨が折れる」
「骨は慣れとる……って言いたいけど、これは慣れてへん!」
セリスィンは手綱ではなく、馬のたてがみに近い部分を掴んだ。
自分の足で動く感覚が消える。心臓が速くなる。だが、左翼へ行く距離は脚より馬が速い。
クラッスス・ジュニアが前を見る。
「行くぞ」
ペディウスが応じる。
「左翼まで一直線だ。——道を開けろ!」
四人は走った。
中央の線を崩さないよう、残された兵たちが瞬時に穴を埋める。
セリスィンは馬上から一瞬だけ振り返り、中央が持ちこたえているのを見て、息を吐いた。
(役目が変わった)
今は“押す”側ではない。
“割れないように繋ぐ”側だ。
テオトニクスが、前方の土煙を見て言った。
「左翼、ほんまにやばそうやな……」
クラッスス・ジュニアが短く答える。
「だからお前らを呼んだ」
ペディウスが吐き捨てる。
「間に合わなきゃ、ここまでの勝ちが全部無駄になる」
馬の蹄が戦場の土を叩き、四人は左翼へ向かった。
そこは、次の“穴”が開きかけている場所だった。




