新月の前
翌日。
「両方から出す」
カエサルは地図板を指で叩き、命令を落とした。
「小さな陣地と、大きな陣地、両方から部隊を出す。——大きな陣地から僅かに前進して陣を敷け。敵を誘い出す」
ラビエヌスが即座に復唱する。
「大陣から前進、戦陣を見せる。小陣は呼応して動く。敵に“機会”を見せる」
「機会を見せて、飲ませる」カエサルが軽く言った。「飲まなきゃ、それも答えだ」
午前の平原。
ローマの戦列が前へ出る。盾が揃い、槍が並び、旗が揺れる。
“来い”という形の言葉。
だが、ゲルマーニーは出てこない。
騎兵も、軽装も、あの一万六千も、影すら見せない。
遠くの火と、遠くの土煙の気配だけがある。
「……出ねぇな」
百人隊長が唸る。
「なぜ、やつらは出てこない」
誰かが苛立ちを押し殺して言う。
「このまま、何月にも渡って長引かせる気か?」
別の声が続いた。
午前の静けさが、嫌な重さを持つ。
戦陣を敷いて待つ時間は、剣で殴られるより心が削れる。
正午近く、カエサルが手を上げた。
「戻る」
「戻るぞ!」
百人隊長たちが叫び、列が整然と引く。
誘いが効かない。効かないということは、相手に別の狙いがある。
ローマ軍は、もやもやしたまま陣へ戻った。
“勝てる形”を作っているのに、相手がそこへ入ってこない。闘技場ではあり得ない種類の苛立ちだ。
そして、その苛立ちを嘲笑うように――
午後、見張りが叫んだ。
「小陣地だ! 小陣地が叩かれてる!」
「騎兵! 軽装も混じってる!」
アリオウィストゥスが、部隊の一部を出して小さな陣地を襲撃したのだ。
まるで「欲しいところはそっちだ」と言うように。
テオトニクスが歯を食いしばって吐き捨てる。
「……ローマを手玉に取りよる」
セリスィンは盾を握り直す。
「誘いには出ないで、穴には刺す。——いやらしい」
競り合いは激しかった。
柵際で投げ槍が飛び、盾が弾き、土塁の上で叫びが上がる。
戦列は崩れないが、削られる。削られても戻らない。
夕方まで、押し合いが続いた。
「負傷者運べ!」
「水! 布! 槍を回せ!」
「押すな、抜けるな!」
多くの傷を受け、多くの傷を負わせた。
それでも決定打はない。決定打を打つ前に、日が傾く。
日暮れ。アリオウィストゥスの部隊は引いた。
“奪う”より“試す”ように。こちらの反応と疲労を測って帰っていく。
ローマ側にも、追撃の声は出なかった。
追えば、昨日の再現になる。相手の選んだ距離で殴り合うだけだ。
夜。
捕虜が引き出された。
襲撃のどさくさで捕らえたゲルマーニーの兵だ。泥と血で顔が固まり、目だけがぎらついている。
カエサルは火の近くで座り、短く問うた。
「なぜ、アリオウィストゥスは攻めてこない」
通訳が訳す。捕虜が唾を吐き、言う。通訳が、少し言いにくそうに言葉を選んだ。
「……ゲルマーニーの間では、主婦が籤や占いで戦争の吉日を決める習慣があるそうです」
「主婦が?」ペディウスが眉を上げる。
捕虜が続ける。通訳が訳す。
「新月より前に戦えば、ゲルマーニーが勝つことはない、と告げている——そのため、今は大戦を避けているのだと」
その瞬間だった。
カエサルの口角が、今までで一番上がった。
笑いというより、“噛み合った”顔。
「……これだ」
ラビエヌスが目を細める。
「これ、とは?」
カエサルは楽しそうに言った。
「待ってた理由が分かった。——やつのことだから、もっと知的な策略を練っていると思ったが……呪いの類か」
クラッスス・ジュニアが思わず笑う。
「勝ちましたね」
ペディウスも鼻で笑う。
「敵の“作戦”が月待ちってのは、助かる」
カエサルは笑いながらも、指を一本立てた。
「油断大敵だがな」
そして、笑いを切って命令の声に戻す。
「明日、攻め込むぞ」
火の周りの空気が変わる。
さっきまでの“もやもや”が、一本の線になる。
待つ理由が分かった。
なら、待つ必要はない。
セリスィンはその命令を聞いて、胸の奥の重さが少しだけ動いた。
怪物が知的かどうかじゃない。勝てる時に殴る。それが戦争だ。
テオトニクスが小さく言った。
「新月前に勝てへんのやったら……明日勝てばええだけや」
セリスィンは頷いた。
「……ああ。明日、終わらせる」




