試合へ
翌日。セリスィンの目覚めは妙に良かった。
昨夜あれだけの騒ぎを起こしたとは思えないほど頭は冴えている。手を握っては開き、腰や肩の調子を確かめる。身体が軽い。
そのまま朝の食堂へ向かった。
昨日の一件で、セリスィンはちょっとした“有名人”になっていた。すれ違うたび声が飛ぶ。
「これはこれは」 「お前とだけは戦いたくねえな」
からかいながら、セリスィンより一回り大きい男たちが笑う。
「おおお、チャンピオン様のお通りだぜ」
ダグラス一派まで、久々に冷やかしてきた。
いつもなら鬱陶しい。だがこの日ばかりは、その“いつも通り”がありがたかった。
剣闘士になって、初めての大会。どんなものか分からない。好奇心より、未知への不安の方が強い。
「よぉ。緊張してんのか?」
隣に座ったシリアスが言った。
「……まあな」
「はは。昨日の様子なら大丈夫だろ」
シリアスまで冷やかす。
「おい、お前も同室なら何か言ってやれ」
シリアスはそう言って、たまたま通りがかったカタルスを呼び止めた。
「……がんばれ」
それだけ言い残し、カタルスは食器を持ってさっさと行ってしまう。
「おいおい、それだけかよ」
シリアスが呆れ、セリスィンは苦笑しかけてやめた。
ダグラス戦の前に助言してくれたカタルスは、やはり保身のためだったのかもしれない。だが――それでも助かったのは事実だ。
聞けば、カタルスは本気で戦えばシリアスやダグラスに劣らない腕だという。いつか、あの男の戦いを見てみたいと思った。
「さて。俺も準備する」
シリアスが立ち上がる。
「ああ、そうだ。どうしようもなく緊張したら――場の“風”を感じろ」
シリアスは真面目な顔で言った。
「自分の呼吸、相手の呼吸、観客の気配、闘技場の地面や壁。全部と繋がろうとすれば、自然体でいられる」
「……ありがとう」
「じゃあな」
シリアスは手を振って去っていった。
ダグラスと違って、どこまでも生真面目な男だ。町の出らしい、という噂も納得できる。野蛮さがない。
(……俺も行くか)
セリスィンは呼吸を整え、食堂を後にした。
◇ ◇ ◇
円形闘技場の待機区画。
通路に入った時点で、熱気が伝わってきた。剣闘士専用の通路を進むと、柵の向こうで民衆が騒いでいるのが見える。叫び声、笑い声、何かを叩く音。こちらを獣を見るみたいな目で見ている。
柵の向こうから視線を引き剥がしかけたところで、
「おい」
背中越しに声がした。
振り向くと、背丈は普通、三十代くらいの男が立っている。
「昨日はすごかったな。見てたぜ」
男は笑いながら握手を求めてきた。
また冷やかしかと思い、セリスィンは短く応じた。
「俺はバナンテ。よろしくな」
バナンテはにかりと白い歯を見せた。
「お前、今日が初試合だろ?」
「ああ」
「だとすると――危ねえな」
言い方が、他の野次馬と違う。セリスィンは眉を動かした。
「危ないって?」
「初陣で死ぬ奴もいる」
バナンテはあっけらかんと言った。
「……」
返す言葉が出ない。
「なんてな」
バナンテは豪快に笑い、セリスィンの背中をばんばん叩いた。
「昔の話だ。奴隷を雑に使う、過激な“見世物”の時だけだよ。俺たちみたいな商いの剣闘士は、なるべく使い回したい。運営だって簡単に殺さねえように回す」
そして少し声を落とす。
「ただし、だからって安心しすぎるな。あまりに無様だと――観客は“主催者”すら止めきれねえ敵になる」
「その時は、殺されることもあるってか」
「ああ。見せしめみたいにな」
バナンテは自分の首を掻っ切る仕草をしてみせた。
「ここで長くやるなら、試合の外では大人しくして、試合で働け。主催者の機嫌なんて、いつ変わるか分からねえからな」
バナンテは肩を軽く叩く。
「なあ……」
セリスィンが何か尋ねようとした、その瞬間。
「あ」
バナンテが前を見て言った。
「いよいよだ。まずは控室だがな」
通路の先――闘技場の内部が、ちらりと見えた。
◇ ◇ ◇
控室に入っても、外の盛り上がりは音と振動で分かった。
すでに観客は詰めかけ、特等席ではワインや料理を広げているのだろう。見世物の猿みたいで気分は悪い――それよりも、セリスィンの意識は「来るべき一戦」へ向いていた。
「よし、行け」
係の者が背中を押す。
開会の演出が始まった。大層な音楽、踊り、供物の牛、そして剣闘士たちの場内一周。
砂を踏んで出ると、視界が眩むほどの人、人、人。
(……万客だ)
剣闘士が人気の興行なのは知っていた。だが、首都ローマから離れたこの地でさえ、ここまでとは。
「すげえだろ」
バナンテが声をかけてくる。
「こんな大観衆の前でやれる。悪くねえだろ?」
バナンテは慣れた様子で観客に手を振り、「任せとけ」とでも言うように笑った。
一周が終わると、もう試合が始まる。
序盤は一対一の試合を二つずつ回し、セリスィンは五試合目に出る予定だった。
だが、緊張していると時間は妙に早い。
一試合、また一試合。気づけば、五試合目の呼び出しが来た。
「――行け」
係の者が背中を押す。
その瞬間、ジムージーの言葉が胸の奥で蘇った。
『いいか。もし、お前にその気があるなら――』
『お前だけのクルスス・ホノルム。栄光の道に乗せてやらんこともない』
セリスィンは、震えた。
だが足は止まらない。
舞台へ上がった瞬間、視界が開ける。
――目の奥に、稲光みたいなものが宿った。
そのことを観客の誰も知らない。セリスィン自身でさえ、まだ知らなかった。




