糧道を切る手
「同日、動いたぞ」
捕縛の報が落ちた、その日のうちに、斥候がもう一つの報を持ってきた。
「ゲルマーニーが陣地を進めました。ローマの陣地から十キロの山麓で停止しています」
ラビエヌスが地図板の上で距離を指で測る。
「……近いな」
テオトニクスが吐き捨てるように言った。
「捕まえた日に、距離まで詰めてくるか。分かりやすい圧やな」
セリスィンは何も言わなかった。喉が乾いている。
“言葉の席”の終わりが、“位置の戦い”の始まりに変わっただけだ。
翌日。
「……来た」
見張りが言った瞬間、丘の向こうに土煙が立った。
斥候が駆け戻ってくる。
「報告! ゲルマーニーがさらに前進! 我らの陣地を越えて——三・二キロ先に新たな陣地を張りました!」
「越えた?」誰かが声を上げる。
ラビエヌスが即座に意味を言葉にした。
「糧道を切りに来た。セークァニーとヘドゥイーが運ぶ穀物と食糧、その道筋を押さえるつもりだ」
テオトニクスが眉をひそめる。
「意外と、ああ見えて狡い真似してくるやっちゃな」
セリスィンがぽつりと言った。
「……狡いんじゃない。戦争だ」
テオトニクスが横目で見る。
「お前、急にまともなこと言うやん」
カエサルはすぐに兵を前へ引き出した。いつ攻められてもいいように、陣地の前で戦陣を整える。
「列を崩すな。盾を揃えろ。——向こうが来たら、ここで受ける」
命令は短い。迷いを入れない。
だが数日、 “大きな動き”はなかった。
ゲルマーニーは騎兵を何騎か出しては引き、また出しては引く。
挑むようで挑まず、測るようで測り切らない。
ローマも、こちらからは仕掛けない。
追えば相手の思う場所へ引きずられる。追わなければ糧道が細る。
その膠着が、余計に不気味だった。
「……何かあるな」
ラビエヌスが言う。
「ただ塞いでるだけなら、もっと早く殴りに来る」
「“塞いでいる間に、別の何かを進めている”」
ペディウスが頷いた。
「時間を買ってる。——どっちの時間だ?」
セリスィンはその会話を聞きながら、胸の奥で違和感が形になっていくのを感じた。
(目的は穀物だけじゃない。こっちの焦りを引き出すのが目的だ)
“裏がある”が、確信に変わっていく。
「このままじゃ、糧道が死ぬ」
ラビエヌスが地図板を叩いた。
「なら、こちらが前へ出て“道を奪い返す”」
カエサルは頷く。
「よし。向こうの止まった地点の向こう側に陣地を置く。距離は——一キロ弱。近いが、必要だ」
「近すぎます」誰かが言う。
カエサルは軽く肩をすくめる。
「近い方が、嘘をつきにくい。——見える場所でやる」
新しい陣地づくりは、戦いそのものだった。
ローマは三列の戦陣を組む。
第一・第二は武器を手にして前へ。第三が工事を進める。
「第一、第二、前へ!」
「第三、杭だ! 溝を掘れ! 手を止めるな!」
セリスィンは第二の列にいた。盾の縁が汗で滑る。足元の土が乾いていて、踏むたび粉が立つ。
テオトニクスが歯を食いしばって言った。
「守りながら作るって、しんどいな……」
「止めたら死ぬ」セリスィンが返す。
「せやな。闘技場やったら“止め”で終わるのにな」
その時、敵の動きが変わった。
斥候が叫ぶ。
「来る! 騎兵——いや、軽装も混じってる!」
ゲルマーニーが、騎兵隊の周りに軽装兵をまとわせるようにして迫ってきた。
数が違う。圧が違う。
ラビエヌスが即答する。
「軽装兵、一万六千!」
テオトニクスが目を見開く。
「……いや、多すぎやろ」
軽装兵は走る。騎兵は突っ込む。
狙いは分かりやすい。工事中の第三列を脅し、手を止めさせる。陣地が形になる前に折る。
「第一、受けろ!」
「第二、横を締めろ! 第三、止まるな!」
百人隊長の声が枯れる。
セリスィンは盾を上げ、投げ槍の雨を弾いた。金属音が耳に残る。
前方で騎兵が突っ込み、砂塵ならぬ土煙が舞う。
テオトニクスが叫ぶ。
「こっち来るぞ!」
「押し返せ!」
第一・第二の戦陣が、前へ出て受け止めた。
追わない。深追いしない。押し返すだけ。線を保つだけ。
その間、第三列が杭を打ち続けた。溝を掘り続けた。土塁を盛り続けた。
恐怖に勝ったんじゃない。命令に勝っただけだ。
敵の軽装兵が近づいてきても、工兵は手を止めない。
止めれば、そこが穴になるのを知っている。
「よし、押し返した!」
「戻るな、形を崩すな!」
ゲルマーニーは数度、脅しては引いた。
脅しては引く。そのたびに、ローマの陣地は“少しずつ完成”していった。
そしてついに、柵が輪を作った。
「……固まった」
誰かが言った時、初めて兵の息が少しだけ長くなった。
夜。
新しい陣地が固められると、カエサルは次の命令を出した。
「ここに二箇軍団と、援軍の一部を残す。——守れ。絶対に割るな」
残される側の百人隊長が即答する。
「承知しました」
カエサルは続ける。
「残り四箇軍団は俺と戻る。大きな陣地へ戻って立て直す」
テオトニクスが小声で言った。
「分けるんやな」
セリスィンが頷く。
「道を守る陣地と、本体の陣地。——二つないと、糧が死ぬ」
「……それ、敵も分かってやってんのやろな」
「だから、裏がある」
セリスィンはそう言って、暗い平原の向こうを見た。
ゲルマーニーの火が点々と揺れている。あの火の数だけ、選択肢がある。
ローマは新しい陣地に楔を打った。
だが同時に、こちらも分かれた。
分かれた瞬間に、敵はそこを数える。
(怪物は、力で潰すだけじゃない。形を崩しにくる)
セリスィンは手綱を握り直した。
闘技場で学んだのは、勝つこと。
いま学んでいるのは、崩れないことだった。




