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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第9章 ゲルマンの怪物
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投げるな

「閣下。これ以上は言葉が刃になります。——ここで切り上げを」


ラビエヌスの低い声が、丘の上の張りつめた空気を一度だけほどいた。


カエサルが頷きかけた、その時だった。


下から駆け上がってくる蹄の音。息の切れた伝令が、馬上のまま叫んだ。


「閣下ッ! 報告!」


「言え」カエサルは視線だけで促す。


「アリオウィストゥスの騎兵隊が塚に近づいてきています! 味方に迫り、石とテラを投げて牽制を——!」


一瞬で、会談の場が“戦場の入口”に変わった。


ペディウスが歯を見せる。

「……やっぱりな」


デキムスとクラッスス・ジュニアの指が剣に触れかける。セリスィンの肩が硬くなる。テオトニクスも、笑う顔じゃない。


だがカエサルだけは、軽く舌を鳴らした。


「話を切る」


通訳に一言だけ投げる。


「今のは聞かなかったことにしろ。——戻るぞ」


「閣下、」ラビエヌスがすぐ添える。「挑発です」


「分かってる」


カエサルは馬首を返した。十騎の列が同じ速度で丘を下り始める。


塚の近くまで戻ると、状況は最悪の一歩手前だった。


「投げ返せ!」

「やられっぱなしでいいのか!」


兵の声が上がり、盾が揺れる。実際、石が飛んできている。テラが、鈍い音で地面に刺さっている。


カエサルは馬上から、いつもの軽い声で、しかし刃のように命じた。


「挑発に乗るな」


ざわつきが止まらない。


カエサルは続ける。声を張ったわけじゃないのに、聞こえた。


「決して敵にテラを投げ返すな。——一つもだ」


百人隊長たちが怒鳴る。


「聞いたか! 投げるな!」

「盾を上げろ! 列を崩すな!」


テオトニクスが唇を噛む。

「……我慢大会かよ」


セリスィンは、昨日の噂の夜を思い出した。兵は“強さ”より“空気”で動く。空気が折れると列が割れる。いま、相手はその空気を折りに来ている。


ラビエヌスが、カエサルの横に寄って小声で言った。


「閣下、数発こちらも投げ返せば、兵は落ち着きます。——“やり返した”という形で」


カエサルは首を振った。


「だめ」


「理由は」


カエサルは、少しだけ声を落として言った。ここからは“兵に聞かせる命令”ではなく、“側にいる者への真意”だ。


「戦いが勃発して負けるとは微塵も思っちゃいない」


クラッスス・ジュニアが黙って頷く。ペディウスも同じ顔だ。誰も、カエサルの軍が負ける前提で話していない。


カエサルは続けた。


「だがな。敵が敗北した後に——“協議の最中にローマに出し抜かれた”とか、“卑怯に先に手を出された”とか、そういう嘘の噂を広められるのが面倒くさい」


セリスィンの背中が冷えた。

(戦いの前に、勝った後の噂を潰してる)


テオトニクスが半分呆れた声を出す。


「……勝ってからの後始末まで考えてるんすか」


カエサルは笑う。


「そうだよ。勝って終わりじゃないだろ」


そして、飛んできた石を盾が弾く音を聞きながら、あっさり言った。


「今の挑発は、逆に贈り物だ」


「贈り物?」ペディウス。


カエサルは顎で兵を示す。


「ほら。一般の兵士にも火がついた。昨日は噂で沈んでたのに、今日は“やり返したい”が出てる。——生きてる証拠だ」


確かに、兵の目が違う。恐怖の白ではない。怒りの赤だ。怒りは扱える。恐怖よりずっと。


カエサルはラビエヌスに言った。


「各隊長格に、今日の協議の内容を広めろ。アリオウィストゥスが何を言ったか、俺が何を要求したか」


ラビエヌスが即答する。


「承知しました。誤った噂が先に走らぬよう、こちらが先に“言葉”を配ります」


カエサルは満足げに頷いた。


「そう。噂は敵の武器だ。——なら、こっちも武器にする」


「よし、戻る」


カエサルが合図し、再び丘へ向かう。

アリオウィストゥスの側も、何事もなかったように“十騎”を整える。まるで最初から石など投げていない顔で。


丘の上で、会談は“続き”として再開された。


だが、埒が明かなかった。


要求は平行線。言葉は研がれるだけ。通訳の喉だけが疲れていく。


ラビエヌスがまた低く言う。


「……このまま続ければ、どちらかが“抜く口実”を拾います」


カエサルは頷き、軽く言った。


「今日は終わり。続きは明日以降」


アリオウィストゥスが鼻で笑い、短く返す。通訳が訳す。


「好きにしろ」


両者が踵を返す。十騎ずつの護衛が、同じ速度で距離を取り始めた。

誰も抜かなかった。誰も刺さなかった。


それでもセリスィンの背中は汗で濡れていた。

剣の汗じゃない。言葉の汗だ。


丘を下りながら、クラッスス・ジュニアがセリスィンに短く言った。


「よく我慢したな」


セリスィンは答えに迷い、結局こう言った。


「……我慢じゃないです。ラビエヌスの命令が、先に入っただけだ」


クラッスス・ジュニアが頷く。


「それが戦争だ」


テオトニクスが、ようやく息を吐いた。


「はー……。今の、殴り合いより疲れたわ」


セリスィンは馬の首筋を撫でた。


翌日。


使節が来た。今度は“再協議”の申し出だった。通訳が読み上げる。


「昨日は交渉がまとまらなかった。再度協議を行いたい」

「もしそれが嫌なら、副将の誰かを自分の許に派遣してくれ」


テオトニクスが鼻で笑う。


「図体に似合わず、えらいビビりやな」


クラッスス・ジュニアが即座にテオトニクスの頭を軽くはたいた。


「口が軽い。——相手の前では黙っとけ」


「いてっ。いや、でもビビりやろあれ」


ペディウスが吐き捨てる。


「副将よこせ? どう考えても罠じゃねーか」


ラビエヌスが、カエサルに淡々と事実を添える。


「やつらは前日、協議中も我慢できずにテラを投げてきました。——“言葉の席”を守る気が薄い」


カエサルは軽く頷いた。


「だからこそ、こちらは“守る”」


テオトニクスが手を上げる。


「ほなら俺が行ってくるわ」


「無理やろ」クラッスス・ジュニアが即座に言って、もう一度はたく。

「お前が行ったら、向こうは“ローマが遊びを寄越した”って笑う」


「ひどっ」


カエサルが、そこでさらりと言った。


「ガイウス・ウァレリウス・プロキルスと、マルクス・マエクティウスを出す」


セリスィンは(なぜその二人?)と思ったが、口には出さない。今は観察する番だ。


ペディウスがセリスィンたちにも聞こえる声で説明する。


「プロキルスは真面目だ。何よりガリア語に通じている。向こうも無下には扱いにくい」


クラッスス・ジュニアが続ける。


「マエクティウスは、かつてアリオウィストゥスのお客となったこともある。——そこを閣下は見抜いたんや」


ラビエヌスが付け加える。


「“話が通る相手”を選んだ。少なくとも、そう見える者を」


カエサルは軽い声で言った。


「そう。——向こうが“礼儀”を使うなら、こちらも“礼儀”で受ける」


「礼儀で殴り合うってことですか」ペディウス。


「そうだよ」


そしてカエサルは、まるで散歩に出すみたいに手を振った。


「行ってこい。戻ったら全部言え。——一つも抜かすな」


派遣隊が出る。馬が遠ざかる。砂埃が薄く残る。


その数刻後。


戻ってきたのは“派遣隊”ではなく、息を切らした別の伝令だった。顔が青い。


「閣下……!」


「言え」ラビエヌス。


伝令は一息で言った。


「二人含めて……アリオウィストゥスに捕縛されたとのことです!」


場の空気が一瞬で凍る。


テオトニクスが低く唸った。


「……ほらみぃ」


ペディウスが歯を食いしばる。


「やりやがった」


クラッスス・ジュニアの目が鋭くなる。

デキムスの手が、無言で剣の柄に触れる。


セリスィンの背中に、昨日と同じ種類の汗が戻ってきた。

だが昨日と違うのは、これは“言葉”の汗ではなく——次の“剣”の汗に変わりそうだということだった。


カエサルは、軽く息を吐いた。怒鳴らない。だが、笑っていない。


「……分かった」


それだけ言って、カエサルは顔を上げる。


「ラビエヌス。準備だ」


「どの準備ですか」ラビエヌス。


カエサルは短く答えた。


「“礼儀”が終わった時の準備だ」

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