投げるな
「閣下。これ以上は言葉が刃になります。——ここで切り上げを」
ラビエヌスの低い声が、丘の上の張りつめた空気を一度だけほどいた。
カエサルが頷きかけた、その時だった。
下から駆け上がってくる蹄の音。息の切れた伝令が、馬上のまま叫んだ。
「閣下ッ! 報告!」
「言え」カエサルは視線だけで促す。
「アリオウィストゥスの騎兵隊が塚に近づいてきています! 味方に迫り、石とテラを投げて牽制を——!」
一瞬で、会談の場が“戦場の入口”に変わった。
ペディウスが歯を見せる。
「……やっぱりな」
デキムスとクラッスス・ジュニアの指が剣に触れかける。セリスィンの肩が硬くなる。テオトニクスも、笑う顔じゃない。
だがカエサルだけは、軽く舌を鳴らした。
「話を切る」
通訳に一言だけ投げる。
「今のは聞かなかったことにしろ。——戻るぞ」
「閣下、」ラビエヌスがすぐ添える。「挑発です」
「分かってる」
カエサルは馬首を返した。十騎の列が同じ速度で丘を下り始める。
塚の近くまで戻ると、状況は最悪の一歩手前だった。
「投げ返せ!」
「やられっぱなしでいいのか!」
兵の声が上がり、盾が揺れる。実際、石が飛んできている。テラが、鈍い音で地面に刺さっている。
カエサルは馬上から、いつもの軽い声で、しかし刃のように命じた。
「挑発に乗るな」
ざわつきが止まらない。
カエサルは続ける。声を張ったわけじゃないのに、聞こえた。
「決して敵にテラを投げ返すな。——一つもだ」
百人隊長たちが怒鳴る。
「聞いたか! 投げるな!」
「盾を上げろ! 列を崩すな!」
テオトニクスが唇を噛む。
「……我慢大会かよ」
セリスィンは、昨日の噂の夜を思い出した。兵は“強さ”より“空気”で動く。空気が折れると列が割れる。いま、相手はその空気を折りに来ている。
ラビエヌスが、カエサルの横に寄って小声で言った。
「閣下、数発こちらも投げ返せば、兵は落ち着きます。——“やり返した”という形で」
カエサルは首を振った。
「だめ」
「理由は」
カエサルは、少しだけ声を落として言った。ここからは“兵に聞かせる命令”ではなく、“側にいる者への真意”だ。
「戦いが勃発して負けるとは微塵も思っちゃいない」
クラッスス・ジュニアが黙って頷く。ペディウスも同じ顔だ。誰も、カエサルの軍が負ける前提で話していない。
カエサルは続けた。
「だがな。敵が敗北した後に——“協議の最中にローマに出し抜かれた”とか、“卑怯に先に手を出された”とか、そういう嘘の噂を広められるのが面倒くさい」
セリスィンの背中が冷えた。
(戦いの前に、勝った後の噂を潰してる)
テオトニクスが半分呆れた声を出す。
「……勝ってからの後始末まで考えてるんすか」
カエサルは笑う。
「そうだよ。勝って終わりじゃないだろ」
そして、飛んできた石を盾が弾く音を聞きながら、あっさり言った。
「今の挑発は、逆に贈り物だ」
「贈り物?」ペディウス。
カエサルは顎で兵を示す。
「ほら。一般の兵士にも火がついた。昨日は噂で沈んでたのに、今日は“やり返したい”が出てる。——生きてる証拠だ」
確かに、兵の目が違う。恐怖の白ではない。怒りの赤だ。怒りは扱える。恐怖よりずっと。
カエサルはラビエヌスに言った。
「各隊長格に、今日の協議の内容を広めろ。アリオウィストゥスが何を言ったか、俺が何を要求したか」
ラビエヌスが即答する。
「承知しました。誤った噂が先に走らぬよう、こちらが先に“言葉”を配ります」
カエサルは満足げに頷いた。
「そう。噂は敵の武器だ。——なら、こっちも武器にする」
「よし、戻る」
カエサルが合図し、再び丘へ向かう。
アリオウィストゥスの側も、何事もなかったように“十騎”を整える。まるで最初から石など投げていない顔で。
丘の上で、会談は“続き”として再開された。
だが、埒が明かなかった。
要求は平行線。言葉は研がれるだけ。通訳の喉だけが疲れていく。
ラビエヌスがまた低く言う。
「……このまま続ければ、どちらかが“抜く口実”を拾います」
カエサルは頷き、軽く言った。
「今日は終わり。続きは明日以降」
アリオウィストゥスが鼻で笑い、短く返す。通訳が訳す。
「好きにしろ」
両者が踵を返す。十騎ずつの護衛が、同じ速度で距離を取り始めた。
誰も抜かなかった。誰も刺さなかった。
それでもセリスィンの背中は汗で濡れていた。
剣の汗じゃない。言葉の汗だ。
丘を下りながら、クラッスス・ジュニアがセリスィンに短く言った。
「よく我慢したな」
セリスィンは答えに迷い、結局こう言った。
「……我慢じゃないです。ラビエヌスの命令が、先に入っただけだ」
クラッスス・ジュニアが頷く。
「それが戦争だ」
テオトニクスが、ようやく息を吐いた。
「はー……。今の、殴り合いより疲れたわ」
セリスィンは馬の首筋を撫でた。
翌日。
使節が来た。今度は“再協議”の申し出だった。通訳が読み上げる。
「昨日は交渉がまとまらなかった。再度協議を行いたい」
「もしそれが嫌なら、副将の誰かを自分の許に派遣してくれ」
テオトニクスが鼻で笑う。
「図体に似合わず、えらいビビりやな」
クラッスス・ジュニアが即座にテオトニクスの頭を軽くはたいた。
「口が軽い。——相手の前では黙っとけ」
「いてっ。いや、でもビビりやろあれ」
ペディウスが吐き捨てる。
「副将よこせ? どう考えても罠じゃねーか」
ラビエヌスが、カエサルに淡々と事実を添える。
「やつらは前日、協議中も我慢できずにテラを投げてきました。——“言葉の席”を守る気が薄い」
カエサルは軽く頷いた。
「だからこそ、こちらは“守る”」
テオトニクスが手を上げる。
「ほなら俺が行ってくるわ」
「無理やろ」クラッスス・ジュニアが即座に言って、もう一度はたく。
「お前が行ったら、向こうは“ローマが遊びを寄越した”って笑う」
「ひどっ」
カエサルが、そこでさらりと言った。
「ガイウス・ウァレリウス・プロキルスと、マルクス・マエクティウスを出す」
セリスィンは(なぜその二人?)と思ったが、口には出さない。今は観察する番だ。
ペディウスがセリスィンたちにも聞こえる声で説明する。
「プロキルスは真面目だ。何よりガリア語に通じている。向こうも無下には扱いにくい」
クラッスス・ジュニアが続ける。
「マエクティウスは、かつてアリオウィストゥスのお客となったこともある。——そこを閣下は見抜いたんや」
ラビエヌスが付け加える。
「“話が通る相手”を選んだ。少なくとも、そう見える者を」
カエサルは軽い声で言った。
「そう。——向こうが“礼儀”を使うなら、こちらも“礼儀”で受ける」
「礼儀で殴り合うってことですか」ペディウス。
「そうだよ」
そしてカエサルは、まるで散歩に出すみたいに手を振った。
「行ってこい。戻ったら全部言え。——一つも抜かすな」
派遣隊が出る。馬が遠ざかる。砂埃が薄く残る。
その数刻後。
戻ってきたのは“派遣隊”ではなく、息を切らした別の伝令だった。顔が青い。
「閣下……!」
「言え」ラビエヌス。
伝令は一息で言った。
「二人含めて……アリオウィストゥスに捕縛されたとのことです!」
場の空気が一瞬で凍る。
テオトニクスが低く唸った。
「……ほらみぃ」
ペディウスが歯を食いしばる。
「やりやがった」
クラッスス・ジュニアの目が鋭くなる。
デキムスの手が、無言で剣の柄に触れる。
セリスィンの背中に、昨日と同じ種類の汗が戻ってきた。
だが昨日と違うのは、これは“言葉”の汗ではなく——次の“剣”の汗に変わりそうだということだった。
カエサルは、軽く息を吐いた。怒鳴らない。だが、笑っていない。
「……分かった」
それだけ言って、カエサルは顔を上げる。
「ラビエヌス。準備だ」
「どの準備ですか」ラビエヌス。
カエサルは短く答えた。
「“礼儀”が終わった時の準備だ」




