十騎ずつ
「ここで止めろ」
丘へ続くなだらかな上り、その手前三百メートルほど。
平野の真ん中に“どちらのものでもない場所”が切り取られていて、カエサルは自軍の騎兵団に待機を命じた。
「合図があるまで動くな。前に出るな。——見える位置で殺すな」
百人隊長たちが復唱し、隊列が沈む。馬の鼻息だけがやけに大きい。
反対側でも同じ動きが起きた。アリオウィストゥスの騎兵が止まり、距離を測ったまま固まる。
そして彼もまた、同じように“十騎だけ”を選び、前へ出した。
ラビエヌスが小さく言う。
「……互いに、十騎」
デキムスが短く返す。
「近い距離で殺すなら、それで足りる」
セリスィンは手綱を握り直した。馬の背の揺れが胃に響く。足で地面を掴めないのが、まだ怖い。
隣でテオトニクスが、妙に静かな声で言った。
「……ほんまに行くんやな。十騎で」
「行くって言ったのはお前だろ」セリスィン。
「そらそうや。けど……」
テオトニクスは喉を鳴らし、いつもの調子を探すのをやめた。冗談が刺さらない空気だと悟った顔だった。
「お前ら、こっちだ」
ラビエヌスが手で合図した。前へ出る顔ぶれが揃う。
カエサル。
ラビエヌス。
デキムス。
クイントゥス・ペディウス。
プブリウス・クラッスス(クラッスス・ジュニア)。
そしてセリスィンとテオトニクス。ほかにも第十軍団から数名、騎兵に仕立てられた者が混じる。
ペディウスがセリスィンの馬を一瞥して、軽く笑った。
「……落ちるなよ」
セリスィンが反射で返す。
「落ちません」
「“落ちません”は落ちる奴の言い方だ」
横でテオトニクスが口を挟む。
「大丈夫っすよ。落ちるのは俺じゃなくて馬っす」
ペディウスが目を細める。
「喋れる余裕があるなら、確かに大丈夫そうだ」
クラッスス・ジュニアが、少しだけ声を落として言う。
「足、すくんでないか」
テオトニクスが肩をすくめた。
「すくんでたら、そもそも乗れへんっすわ」
クラッスス・ジュニアは、わずかに口元を緩めた。
「いい返しだ」
セリスィンはクラッスス・ジュニアの横顔を見た。若いのに、背筋が“貴族の背筋”だ。守られてきた背筋じゃない。責任を背負うことが決まっている背筋。
ペディウスがセリスィンに説明するように小声で言った。
「……あれがクラッススの息子だ。今ローマを引っ張ってる連中の一角のな」
セリスィンは小さく頷くしかなかった。
闘技場の貴賓席で感じた“権力の匂い”が、ここにもある。
カエサルが馬上で軽く言う。
「よし。十騎。近づく。——目は前。口は通訳の後ろでいい」
テオトニクスが囁く。
「口、使えって言うたのに、今日は黙れ言うんか」
セリスィンは息を吐いた。
「今日は、言葉が武器だからだろ」
丘へ向けて、両者が同じ速度で進む。
馬蹄が草を叩き、風が鎧の隙間を抜ける。
丘を登りきる少し前、アリオウィストゥスの姿が見えた。
――でかい。
背丈だけじゃない。馬上での“座り方”がでかい。鎧も飾りも派手ではないのに、周囲の空気がそこだけ硬い。戦い慣れした戦士の匂いがする。
セリスィンは息をのんだ。
(ヘルヴェティもヘドゥイーも、結局は同じ人間だった)
だが、これは違う。
“戦争の中で生きるのが普通”の顔だ。
テオトニクスも黙っていた。ふざける余裕が抜け落ちている。
カエサルだけが、不敵に笑っている。怖がっていない笑いではない。
「怖さを扱うのが上手い」笑いだ。
通訳が一歩前に出る。
カエサルが話し始めた。声は軽いのに、言っていることは重い。
「そもそも俺や元老院からの多大な好意ってやつを受け取ったってのに、なんだこのありさまは」
通訳がガリア語に移す。言葉が変わると、同じ文でも刃の角度が変わる。
カエサルは続ける。
「俺たちがお前にやったもんは、普通はそこらの男じゃ手にできない。——それを気前の良さでやった」
セリスィンはその言い方に、少しだけぞくりとした。
贈り物を“縄”として見せる言い方だ。
カエサルは息を切らさず、次を出す。
「ヘドゥイーはローマと古くからの友だ。元老院も気にかけている」
「俺たちは友邦と連合部族の栄光と繁栄が失われない形で、親愛も権威も名声も増えることを望んでいる」
通訳が言い切ると、アリオウィストゥスの口元がわずかに歪んだ。笑いではない。鼻で払う形だ。
カエサルはさらに押す。
「そのローマの友情が崩れるのを、黙って見てるやつがいるか」
「要求は変わらない。ヘドゥイーの人質を返せ。これ以上、レーヌス河を同胞に渡らせるな」
言い切った。
セリスィンは舌を巻いた。
相手の空気に気圧されず、必要な文だけを置く。闘技場で見た“勝ち方”より、よほど恐い。
アリオウィストゥスが話し始めた。声は低く、通訳を通しても硬い。
「そもそもだ」
通訳が訳す。
「我らは自ら進んでレーヌス河を渡ったのではない。ガリア人に求められ、呼ばれた」
アリオウィストゥスは首を少し傾けた。
「雇われた身として報酬を求めに出た。出稼ぎのようなものだ」
「出稼ぎがその土地に住むことが、それほど悪いのか?」
テオトニクスが、馬上で小さく息を吐いた。怒りというより、感心に近い。
(言葉がうまい)
アリオウィストゥスは続ける。
「ガリア人は戦争を挑んだ。そして我らが勝った」
「マゲトブリガで勝った者が負けた者から貢物を得るだけだ。戦争の掟だろう」
カエサルは顔色を変えない。だが目が動いた。次の刃を探す目だ。
アリオウィストゥスはさらに言う。
「ローマの友情は、私にとって飾りのようなものだ。護りになっても害になってはいけない」
「ローマのために貢物を返せというなら——私は友情を迎えたのと同じように、進んでそれを拒む」
セリスィンは、カエサルの横顔を見た。
表情は笑っているようで、笑っていない。珍しく、苛立ちの気配が薄く混じるのが分かった。
カエサルが短く返す。
「言うね、小僧」
通訳が訳す。場の空気が少しだけ尖る。
アリオウィストゥスは止まらない。
「ゲルマーニーを入れたのは、襲うためではない。自己防衛のためだ」
「これまでローマの軍は、ガリア・プロウィンキアを越えたことがない。何を望み、何のために我らの領地に足を踏み入れた?」
そして決定打のように言う。
「ローマはローマ人のものだ。このガリアは、我らのプロウィンキアだ」
「ローマがお前たちの領地に干渉されて怒るように、我らも干渉されれば穏当ではない」
セリスィンは思った。
武勇だけじゃない。理屈で殴ってくる。しかも最新の情報を前提に、相手の矛盾を突く。
アリオウィストゥスがさらに続ける。
「ヘドゥイーは元老院に気にかけられる友邦だ、とお前は言った」
「だが最近、アロブロゲースの件では足を引っ張った」
「そして我らとセークァニーの戦争の時、お前たちはヘドゥイーに手を貸さなかった」
ディウィキアクスのいない場でそれを言うのが、またいやらしい。
ガリア首領の言葉を“武器”に変えている。
「本当に友愛があるのか疑わしい」
「その言葉を口実に、私を倒すのが目的ではないか?」
カエサルは一拍置き、はっきり言った。
「よーくわかった。約束を守る気はさらさらねぇってことだな」
「俺たちの好意を無下にする、と」
アリオウィストゥスが鼻で笑った。
「好意?」
通訳が訳した瞬間、セリスィンは背中が冷えた。
次の言葉は、刃が“相手本人”へ向いている。
「そもそも貴公は、そんなにローマから好かれているのか?」
「貴公を倒すことで喜ぶ者が、ローマにも多いと思うぞ」
――倒す。
それは、カエサルを殺すという意味だ。
デキムス、クラッスス・ジュニア、ペディウスが一斉に剣へ手をかけた。
同じ瞬間、ゲルマーニー側の護衛数名も武器に触れる。
馬の鼻息が荒くなる。距離が短すぎる。
セリスィンも反射で手が動きかけた。
だが、そこで低い声が落ちた。
「落ち着け」
ラビエヌスだった。
怒鳴らない。命令だけが通る声。
「剣を抜くな。——抜けば、それが合図になる」
デキムスの指が止まる。クラッスス・ジュニアも、ペディウスも止めた。
止まれるのが怖い。止められるのが、さらに怖い。
アリオウィストゥスは口元だけを歪めたまま、続ける。
「別に貴公と仲悪くしたいわけではない」
通訳が訳す。
「簡単だ。このガリアを我らに自由にさせてくれるなら、貴公らに十分な贈り物を出す」
「戦争にもついていこう。我らはあくまで出稼ぎなのだからな」
“贈り物”で縛るのはローマだけじゃない。
アリオウィストゥスも同じ縄を投げてくる。
カエサルは、笑っていた。軽い笑いだ。だが目は鋭い。
「贈り物か。……いいね。ローマ人は贈り物が好きだ」
通訳が訳すと、アリオウィストゥスの護衛が小さく笑った。嘲りの笑いだ。
カエサルは続けた。
「だが、俺は“条件”で動く男じゃない。——掟で動く」
そして、さっきと同じ要求を、言い直すように置いた。
「人質を返せ。これ以上、ゲルマーニーを入れるな」
「それができないなら、次は言葉じゃ済まない」
アリオウィストゥスは肩をすくめる仕草をした。馬上でもでかい。
「なら、やってみろ」
通訳が短くした訳が、余計に刺さる。
セリスィンは、カエサルの横顔を見た。
この距離で、この相手に、この空気で――笑っていられるのが異常だ。
だが同時に、アリオウィストゥスも異常だった。
武勇だけの怪物ではない。理屈の刃も持っている。
テオトニクスが、今にも口を挟みそうになって、ぐっと堪えた。
そして、馬上でセリスィンにだけ聞こえる声で言った。
「……あいつ、ほんまに“怪物”やな」
セリスィンは小さく頷いた。
「……でも、人間だ」
「何が」
「殺せる距離にいる。……闘技場と違って、殺したら終わらないけど」
その言葉の重さを、セリスィン自身が一番分かっていた。
ラビエヌスが、カエサルへ低く言った。
「閣下。これ以上は言葉が刃になります。——ここで切り上げを」
カエサルがその進言に頷こうとしたときに下から伝令が走ってくるのが聞こえた。




