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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第9章 ゲルマンの怪物
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深夜発、ついて来い

「……以上だ」


カエサルがそう締めた瞬間、天幕の空気がほんの少しだけ軽くなった。

誰もが、さっきまでの自分の“噂の顔”を忘れたふりをして、次の顔を探している。


カエサルは帰ろうとして――思い出したように振り返った。


「そうそう」


ざわ、と視線が集まる。


「今夜の深夜から、明日の明朝までには宿営地を引き払う」


一拍。


「お前たちが恥を知って責任を果たすか、恐怖心が勝つか――見ものだな」


誰かが笑いそうになって、飲み込む。

だが、今度は“笑っていい”空気が少しだけある。


カエサルはさらに軽く言った。


「仮に誰も来ないとしても、第十軍団だけは必ずついてくる」


第十の百人隊長たちが反射で胸を張った。


「護衛となってな。そうすりゃ——こいつらは俺の最も大事な近衛兵だよ」


天幕の端にいたテオトニクスが、即座に一歩前へ出た。


「当然」


そのままカエサルへ拳を差し出す。

一瞬、場が固まったが、カエサルは笑って拳を合わせた。


「いい返事だ」


乾いた笑いが起きる。さっきより少しだけ“音”がある笑い。


セリスィンはその拳を見て、胃の奥が少し温かくなった。

(逃げない、って合図を、拳で出すんだな)


天幕を出た直後から、空気が変わった。

“噂”を回していた口が、“準備”の言葉に変わっていく。


第十軍団の千夫長が百人隊長たちを集めて言い切る。


「閣下が“第十は必ず来る”と言った。——最高の評価だ。恥をかかせるな」


百人隊長が返す。


「させません」


「装備点検、今からやり直す。靴紐、革紐、留め具、全部だ。夜に切れたら終わる」


「了解!」


セリスィンの班の古参兵が小声で言った。


「……近衛兵、だってよ」


別の兵が鼻で笑う。


「よく言う。けど、悪くねぇ」


セリスィンはその会話を聞きながら、剣帯を締め直した。

テオトニクスが隣で言う。


「な? 言葉ひとつで、顔って変わるやろ」


「……変わるな」


「変えられるやつが、強いんや」


他の軍団も負けていなかった。


第七軍団の一級百人隊長が、部下の前で怒鳴る。


「第十だけに“護衛”を取らせる気か! ふざけるな! 俺たちも来る!」


「来ます!」


第八でも第九でも、千夫長や一級の百人隊長が同じように言う。


「噂で死ぬな!」

「噂で止まるな!」

「足で返せ!」


決意は連鎖した。

誰かが逃げるための言い訳を探す前に、別の誰かが“恥”を先に置いた。


そして、その恥が軍を動かす。


夜。灯りを絞った幕舎で、カエサルはディウィキアクスと向き合っていた。


「迂回路があると言ったな」


ディウィキアクスが頷く。


「ある。八十キロ以上は遠回りになる」

「だが平原を抜けて進める。森に噛まれずに済む」


ラビエヌスが地図板を押さえながら確認する。


「森を避ける代わりに距離を買う。……兵の足は持ちますか」


ディウィキアクスが言う。


「持つ。道は広い。水場もある」


カエサルが軽く笑う。


「いい。森で怖がるより、平原で疲れた方がマシだ」


ディウィキアクスが一瞬だけ表情を曇らせる。


「ただ……アリオウィストゥスは、動きが速い。気づけば先回りされる」


カエサルは肩をすくめた。


「気づく前に動く。だから今夜だ」


深夜。


号令は小さいのに、全軍が同じ方向を向いたのが分かった。

荷はまとめられ、火は落とされ、列は静かに伸びる。


百人隊長ルキウスが第十の列を見て言う。


「よし。第十、揃ってる。……近衛兵だとよ。聞いたか」


「聞こえました」

誰かが答える。


ルキウスが鼻で笑う。


「なら、見せろ。口じゃなく足でな」


セリスィンが前を向くと、テオトニクスが肩をぶつけてきた。


「行くで」


「ああ」


「噂に食われへんようにな」


セリスィンは短く息を吐いた。


「……食わせない」


前方で、カエサルが振り返りもしない声で言った。


「出発」


深夜のウェソンティオが背中に沈み、平原の闇が前に開いた。

恐怖が消えたわけじゃない。だが、今夜の列は止まらない。


恥と責任が、足を前へ押していた。

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