噂
「……ウェソンティオは取った。今日は休め」
そう言われても、休息は“安堵”の形では来なかった。
城内の酒場や市から、別のものがじわじわ入ってくる。
「聞いたか? ゲルマーニー人は熊みたいな体格だってよ」
「冗談だろ」
「冗談じゃない。見た商人が言ってた。肩幅が人間じゃないって」
「眼がな……眼光が違う。顔つきだけで縮むって」
「力もだ。重荷を軽々持ち上げる。馬みたいに」
兵の輪に、商人が混じる。ガリア人の案内役も混じる。
誰もが“見た”と言い、“聞いた”と言い、最後には“確かだ”と言う。
「……お前、実際に見たのか?」
「見てねえ。でも見た奴が――」
「それが噂だろ」
「噂でも死ぬ時は死ぬ」
笑いが消える。
その夜から、声の調子が変わり始めた。
「百人隊長、お願いがあります」
「なんだ」
「急用です。休暇を。すぐ戻りますから」
「いま“すぐ戻る”と言ったな? 前線で?」
「……家が。親が……」
「親の顔を見に帰って、次は誰の親が死ぬと思ってる」
「……」
別の天幕では、もっと露骨だった。
「おい、靴紐、結べよ」
「……」
「おい。聞こえてんのか」
「……動くと、怖い。動かなきゃ、まだ……」
「まだ、なんだよ」
「まだ死んでない」
言葉が詰まる。
「お前……泣いてんのか?」
「泣いてねえ」
「泣いてるだろ。顔見ろよ」
「……俺、ここで終わりだな」
「やめろ、そんな言い方」
「だって相手、熊だろ?」
「熊に負けたら、俺らは何だ」
「……獲物」
「……」
別の火のそばでは、囁きがひどく湿っていた。
「遺言、書いたか?」
「は?」
「書けよ。書いとけ。書かないと残らない」
「縁起でも――」
「縁起で死ぬなら安いもんだ」
そう言って、板切れに爪で文字を刻む者まで出た。
紙ではなく、削って残す。生き残れない前提の手つき。
それが、若い兵だけの話ではなくなっていく。
「百人隊長ルキウスが……顔色悪いぞ」
「嘘だろ。あの人が?」
「騎兵の指揮者もだ。さっき“馬が嫌がってる”とか言ってた」
「馬が、って……」
「理由を探してるだけだ。怖いから」
経験のある者、血を見慣れた者、列を保ってきた者まで、噂に腹を刺される。
“敵の強さ”より、“自分の知らない強さ”が怖い。
セリスィンは城壁の陰でそれを聞き、唇の内側を噛んだ。
(まただ。剣じゃないところで崩れる)
そこへ、テオトニクスが来た。火の外側の暗い場所まで、わざわざ寄ってくる。
「あーあ……なんやこの情けない面は」
吐き捨てるように言ってから、テオトニクスはセリスィンを見た。
「お前は?」
「……何が」
「怖いんか」
セリスィンは一拍置いた。
「まさか。噂が一番怖い」
「せやな。噂は殴れへんしな」
テオトニクスが笑おうとして、笑えずに鼻で息を吐いた。
翌日、ついに“もっともらしい言葉”として噂が出世した。
副官格の者が、ラビエヌスに言う。
「将軍。進言があります」
「言え」
「アリオウィストゥスのいる方角には大森林があると。補給――物の供給が滞る恐れがあります」
別の者も、声を重ねる。
「陣地を動かしても、前進を命じても、兵が言うことを聞かないかもしれません」
「無理に動かせば、隊列が割れます」
ラビエヌスが淡々と返す。
「兵が“言うことを聞かない”のは、命令の問題じゃない。心の問題だ」
「だからこそ、いま――」
言いかけたところで、奥から軽い声が割って入った。
「もういい」
カエサルだった。椅子に座っていたのに、立ち上がる気配だけで空気が変わる。
「森林? 補給? 兵が動かない?」
カエサルは首を傾げる。
「……お前ら、俺に“動かない軍をどう動かすか”って相談してんのか。面白いね」
誰も笑えない。
カエサルは一歩だけ前へ出て、指を鳴らした。
「もういい」
そして、声を落としもせず、怒鳴りもせずに命じた。
「一度、全百夫長以上を集めろ」




