前夜祭②
「ずるはなしの一本勝負だ」
皆の視線が集まる中、セリスィンとカルガンダは肘をつき、腕を組んだ。
「しょんべん漏らすなよ」
カルガンダが鼻で笑う。セリスィンは聞かなかったことにした。
「それでは……レディ……」
仕切り役の男が声を張る。その声が合図のように、二人の腕に一層力がこもった。組んだ瞬間だけで分かる。カルガンダは体格相応の怪力だ。
「ファイト!」
開始の声と同時に、二人が一斉に力を入れた。
――拮抗。
周囲の予想に反したのだろう。「おおっ」とどよめきが起こる。
「いけ、餓鬼!」 「がんばれ!」
(誰が餓鬼だ)
セリスィンは心の中で突っ込みながら、表情だけは動かさない。
「なかなかやるじゃねえか」
カルガンダはまだ余裕の笑みを浮かべていた。半分も出していないと言わんばかりだ。
「ちっ……」
セリスィンは歯を噛んだ。自信はあっても、体格差はやはり大きい。
それでもセリスィンは、路上で培った“感覚”で流れを変えていった。腕だけで押し合わない。手首の角度、指の掛け方、肩の入れ方――僅かな違いを積み重ね、均衡を少しずつ自分の有利へ寄せる。
「すげえ!」 「いいぞ、坊主!」
(坊主はやめろ)
観客の声が熱を帯びる。だがカルガンダは焦った様子がない。
「おい、カルガンダ情けねえぞ!」
仲間の野次が飛ぶ。
「うるせえ。遊んでんだよ」
カルガンダはそう吐き捨てると、ふっと笑った。
「……さて。そろそろいくか」
空気が変わった。
カルガンダの腕に、じわりと重みが増す。押されているはずの位置から、信じられない力で持ち上げてくる。
セリスィンの優勢が削られ、腕が少しずつ戻される。やがて二人の手は、ほぼ開始位置へ戻っていた。
「なかなかだ。だが――」
カルガンダがさらに力を上げる。セリスィンは受け止めるので精一杯になる。
(長引けば……体力差で負ける)
打開策が浮かばない。
「ふんっ」
カルガンダが一気に押し込む。周囲が「勝負あったか」とざわつく。
「残念だったな」
カルガンダが最後の一押しに入ろうとした、そのとき――
ぴたり、と止まった。
あと一息のところで、決まらない。
「……?」
カルガンダの眉が初めて動いた。優位なのに、相手の目が死んでいない。
セリスィンの腕が、ほんの少しずつ戻り始める。
「おいおいおい」 「まじかよ!」
驚きと歓声と茶々が入り混じる。
「やるな、坊主!」
会場が一段と熱くなる。
セリスィンが踏ん張れているのは、腕力そのものというより――手首だった。路上で木を折り、縄を引き、獲物を引き上げ、道具を作り続けた生活が、前腕と手首だけを異様に育てていた。
やがて二人の腕は、また真ん中へ戻る。
「ぬおっ!」 「くっ……!」
膠着が続くかに見えた。
しかし決着は唐突に来た。
力と力が真正面からぶつかった、まさにその瞬間――
ボキン、と。
異様な音がした。
「いでえええ!!」
腕が離れ、カルガンダが床に転がってのたうち回る。
一瞬、何が起きたか分からなかった。だが仕切り役がすぐ叫ぶ。
「医務室だ! 早く!」
数人が駆け寄り、カルガンダを担ぎ上げて運び出した。
骨折。腕相撲では珍しくない。筋肉が耐えても、骨が先に悲鳴を上げることがある。まして今のように、互いに強引に押し切ろうとすれば――なおさらだ。
さっきまでの祭りの熱は嘘のように冷め、ひそひそ声だけが残る。
「あれ、やばい音だったな」 「ああ……確実にいってる」 「勝ち負けは……」 「ばか。明日の試合、出られねえだろ」
セリスィンは輪の中に溶け込めず、呆然と立ち尽くしていた。
そこへ、宿の世話役らしい男が近づいてくる。
「何か騒ぎがあったようだね」
事情を聞くなり、男はセリスィンに顎をしゃくった。
「――来なさい」
セリスィンは従うしかなかった。
◇ ◇ ◇
「つまり、腕相撲で骨折が出た、と」
世話役はセリスィンの話も聞き終え、深いため息をついた。
「あの……」
セリスィンが何か言おうとした瞬間。
「本当に馬鹿だね、君たちは!」
世話役が声を荒げ、椅子から立ち上がった。
セリスィンは唖然とする。
「いいかい? 君たちは大事な“商品”なんだ」
世話役は早口で続ける。
「私たちは興行師や主催側から、君たちという商品を預かってる。その商品同士が、酒に酔って怪我をしました――なんて、言えるわけないだろう。ばかちん」
セリスィンは「自分は酒を飲んでいない」と言いかけたが、世話役は勝手に先を行く。
「……まあ君は巻き添えの側だ。情状酌量の余地はある。だが、結果は同じだよ」
世話役は頭を掻き、吐き捨てるように言う。
「明日、彼の試合がなくなれば、場は冷える。売り上げが落ちる。賭けも動く。客も荒れる。分かるかい?」
「……はい」
「いいかい」
世話役はぐいと顔を近づけた。
「君の命は、君のものだ。……でも同時に、もう君だけのものじゃない」
言い終えると、世話役は手を振った。
「もういい。下がっていいよ。寝て、明日に備えなさい」
部屋を出た。
なぜだか、セリスィンの胸は少し軽かった。
『君だけのものじゃない』
言っている意味は、脅しでも説教でもあるのに――長い間“誰のものでもない”場所で生きてきたセリスィンには、その言葉が悪く響かなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、夢を見た。
業火の中、炎に包まれた女がいる。声がする。自分の名を呼ぶ声だ。
――もう二度と戻らない過去。
「……母さん」
呟いたとき、自分が泣いていることに気づかなかった。




