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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
プロローグ
1/165

旅立ち

 白い塗り壁に囲まれた小部屋で、青年――セリスィンは目を覚ました。


鏡台と机と寝台がひとつずつ。あとは何もない。雄牛が一頭入ったら、それだけで身動きが取れなくなりそうな狭さだ。ここは家ではない。兵舎の一室――仮の寝ぐらに過ぎなかった。


セリスィンは身を起こし、窓に歩み寄る。


小通りに面したその窓からは、行き交う人々が見えた。商人、荷車、牛。剣を携えた兵らしい男。子を連れた母親。眩い太陽に目を細めると、世界は驚くほど穏やかだった。


「……ついに、この日が来たのか」


彼はそう呟いた。


*


身支度を済ませ、セリスィンは市場で買ったプラムをかじりながら歩いていた。


――いや、正確には「ローマの街」そのものを歩いているわけではない。城外に広がる軍営へ向かう道すがら、商いが寄り集まってできた小さな市を抜けているのだ。軍が動けば、人も金も食糧も動く。その周りに市ができるのは自然なことだった。


横を過ぎるのは荷運びの牛、兵具を担ぐ若者、子をあやしながら歩く女。争いとは程遠い、ぼんやりした午前の空気が辺りに漂っている。


「よう、セリスィン」


周囲に溶けるように歩いていた彼へ、横合いから声が飛んだ。


「……なんだ、テオトニクスか」


不意に呼び止められ、セリスィンは露骨に不機嫌になる。


「あっ、なんだよ。そう怒んなって」


しっしっし、と喉の奥で笑いながら、友人テオトニクスが並んで歩き出す。


「しかし、まさかだよな。ついにこの日が来るとは」


「ああ」


セリスィンは短く頷いた。


「俺たちみたいなしがない若造がさ、天下の大将軍に目をつけられるなんて」


テオトニクスは嬉しそうに空を仰ぐ。


「あんまり勘違いするな。俺たちは、あの方に“見定められた”わけじゃない」


セリスィンの表情は固い。


「じゃあ、なんで俺たちは選ばれた? 剣闘士なんて腐るほどいるのに。数多くの中からさ」


「たまたまだ」


「たまたま?」


「たまたまあの方が、あの試合を見ていた。それで――」


セリスィンは言い淀み、口を閉ざす。


「……それで?」


セリスィンは足を止め、テオトニクスの顔を正面から見た。


「兵士の数は、いくらいてもいいからな」


「なんだそれ」


テオトニクスはあきれたように肩をすくめ、滑って転びそうな勢いで笑った。


*


軍営はすでにざわめいていた。


天幕が並び、槍や盾が陽に光り、兵の怒号と笑い声が交じる。出征前の熱――その匂いが、空気そのものに染みついている。


『ついにこの日がやって来た!』


一個軍団、第十軍団の副将が、壇上で声を張り上げていた。


『我々ローマ人にとって、喉に刺さった骨――いや、生きたはらわたのように苦い存在であった、にっくきガリアの地に! 我が――』


そこで副将は一瞬言葉を選び、


『……我らが総督が、赴任する日が!』


少し離れた天幕で軍装を整えていたテオトニクスとセリスィンの耳にも、兵たちの鼓舞が届く。どよめきが波のように広がり、「おおっ!」という声が重なった。


「なあ、今の“生きたはらわた”って何だよ」


テオトニクスが帯を締めながら、顔をしかめる。


「さあな。要するに、苦いって言いたいんだろ」


セリスィンは淡々と答え、荷をまとめ続ける。


「わかりづれえな。牛の睾丸でいいだろ、それか山羊の」


「……お前のたとえも大概だ」


『我が軍はこの日のために準備を重ねてきた! そしてローマ市民は、幾年にもわたりこの征服を夢見てきた!』


副将の声が、また一段と高くなる。


「下々の意見を勝手に代弁すんなっての」


テオトニクスがぶつくさ言う。セリスィンは返事をしない。


『此度の目的は、我らが総督の属州統治――しかし、それだけに限らぬ! 我らはガリアを征し、二度とローマに刃向かえぬようにする!』


雄叫びが上がる。


「なあ、さっきから持ち上げすぎじゃない? “我が王”とか言いそうな勢いだぞ」


「黙って運べ」


『それでは――出発前、最後の言葉としよう! 我らが総督、カエサル閣下のお言葉である!』


その瞬間、兵たちの熱が跳ね上がった。


「カエサル! カエサル!」


テオトニクスとセリスィンは積み荷の準備を終え、天幕の外へ出る。壇上へ上がっていく男の姿が見えた。


――カエサル。


遠目でもわかる。あれは、壇上の空気を自分のものにしてしまう男の歩き方だった。


「あーあー、静かに静かに」


カエサルは、騒ぐ群衆を軽くあしらうように手を振った。


「な? 堅っ苦しいの苦手そうだろ」


テオトニクスが得意げにセリスィンを見る。セリスィンは返さず、視線を壇上へ戻した。


「おい、お前ら!」


カエサルの声で、兵たちの背が揃う。


「青春できてやがるか?」


意味はよくわからない。それでも笑いと歓声が混じり、「おおっ」とどよめきが返る。


「女どもと未練はねえか!?」


またも微妙な歓声。


「まあいいや」


カエサルは、遊びに飽きた子どものように一歩、二歩と歩き、そこで足を止める。


「言っとくが、これから当分ここには帰れねえぞ。覚悟しとけよ」


途端に、場が静まった。


「さっきの副将が言ったとおり、俺はガリア総督の椅子に座って満足する気はねえ。ガリアを丸ごと自分のもんにして――ポンペイウスの爺さんに泡吹かせてやる」


兵たちの喉が震える。「うおお!」と士気が上がった。


「だがな。俺は、争いで無駄な血が流れるのを望まねえ。男同士はまだしも、子どもや老人、女を泣かせるような真似は――するな」


「その通りだ」「確かに」と声が上がる。


「だから告ぐ。もし俺の意に反する奴が出たら――八つ裂きにして、ポー平原で四六時中、馬の後を走らせてやる」


「おー怖い怖い」


テオトニクスがおどけて笑う。


セリスィンは笑わなかった。まっすぐにカエサルを見つめていた。


そのとき――一瞬だけ。


確かにカエサルがこちらを見て、ニヤリと笑った気がした。


「……しかし、だからといって臆するこたあねえ。相手が大の男なら、容赦はいらねえ」


歓喜の声が押し寄せる。


そして――


「野郎ども! 宴の時間だ!」


場は最高潮に達した。


*


これは、無名の孤児の少年が、天才的なカリスマを持つ大将軍に出会い、激動のローマを駆け抜ける物語である。

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