【61:春野日向にも苦手はある】
さっきまで俺の腕にしがみついていた日向が離れて、俺の左腕は急に軽く、そして涼しくなった。
それは……少し寂しい感じがするけど、ずっとしがみついていてもいいよなんて言うわけにはいかない。
それからまた俺たちは続きの展示を見て回り、全部見終えてトリックアート館を出た。
ふと日向の顔を見ると、すっかり笑顔が戻っている。
「あー、楽しかったねー」
「おう、そうだな。めっちゃ楽しかった。それにしても意外だったな。運動神経抜群の日向があんなにビビるなんて」
「高所恐怖症みたいな感じで、高いところが苦手なの……運動で鍛えても関係ない感じかな、ははは」
「そっかぁ。やっぱり日向にも、苦手なものはちょこちょこあるんだな」
「それは……色々あるよ……」
「え? 他にもあるの?」
「う、うん……虫とか」
「ああ、虫な。そりゃ女の子は苦手な子が多いな」
「まあね……えへへ」
──そうなんだ。やっぱり日向も苦手なものがあるんだな。
だけど料理とか、さっきのようなこととか。日向が苦手なものがあれば、俺がフォローしてあげられたらいいなと思う。
「ああ、楽しかった! でも、もうそろそろ帰らなきゃいけない時間だね」
「そうだな。日向は6時くらいには家に帰らなきゃいけないんだもんな」
「うん……」
日向は少し寂しそうな感じの表情を浮かべている。まだまだ遊び足りないのだろうか?
「でも仕方ないか……帰りましょうか」
「そうだな」
俺も、この楽しい時間がこれで終わりを告げるのかと思うと、少し寂しい気もする。だけど遅くなって日向のお母さんが怒るとまずいし、仕方がない。
そう考えて、俺たちはK市の中央駅へと歩いて向かった。
帰りの電車に乗ると、来る時よりも混んでいた。二人分空いている座席は、ボックス席の横並びにしかない。
これから一時間余りも電車に乗るのだから、立ったままというのも困るしそこに座ることにした。
お互いに遠慮して、座席の端の方に寄って、少し間を開けて腰かける。
「ああ、楽しかったねぇー」
「そうだな。俺も楽しかった」
「コーヒー博物館、中華街、餃子、異人館、トリックアート……」
日向は宙に視線を向けて、今日行った場所を思い出しているようだ。俺の頭にも今日一日が甦る。確かに全部楽しかった。
それはもちろん行く先々のイベントが楽しいというのもあるが、一緒にいる日向が本当に楽しそうにしていたのが大きいと思う。
日向ってホントに楽しそうな笑顔をするから、こちらまで楽しさが倍増するのだ。
俺と日向は帰りの電車の中で──今日の出来事なので思い出話というのも変だけど──楽しかった思い出話に花を咲かせた。
30分くらいはそうやって二人で話をしていた。しかし横に座る日向がふと黙り込んだので見てみると、とても眠そうにしていることに気づいた。
重そうな瞼が閉じてしまうのを、必死になって我慢している。ガタンゴトンと心地よい電車の揺れに、眠くなってしまったようだ。
楽しくて気がつかなかったけど、そう言えば俺も疲労感がある。そりゃ、あれだけ歩き回ったんだ。日向も疲れているのだろう。
頑張り屋の日向のことだから、もしかしたら今日一日遊びに出る分、昨日は遅くまで勉強をしていたのかもしれない。
そう思って、声をかけずにそっとしておこうと考えた。
横目で日向を見ていると、我慢し切れなかったのか、とうとう完全に目を閉じて、こっくりこっくりと頭を下げて居眠りを始めた。
しばらくそんな日向の様子を眺めていたら、突然日向の身体がこちらに傾いてきて、コトンと頭が俺の肩に乗った。
肩に日向の頭の重みを感じ、日向の髪から甘い香りが鼻に届く。この髪の香りを嗅ぐのは、今日二度目だ。
しかし二度目だからと言って、慣れるわけでもない。また心臓が急にバクバクと踊り始める。
──どうしよう?
起こすべきだろうか?
そんなことを迷いながら日向の穏やかな寝顔を眺めていたら、ふと思い出した。
──そう言えば、日向の居眠りを目にするのはこれが二回目か。前は料理教室で休憩中に、参考書を膝に置いたまま寝ていたな。
あの時のことを思い出すと、なんだかほのぼのとした気分になる。
それにしても……前回日向の居眠りを見た日から、まだ2ヶ月くらいしか経っていない。
あの時はまだ日向のことを、なんでも器用にできるスーパーな美少女だとしか思っていなかった。
あれからたった2ヶ月ではあるけれども、実は日向も色々と悩みを抱えていることとか、ものすごく努力家であることを知った。
その上で見る今の日向の寝顔は、前回見た時とは違ったものに見える。
──日向。たまには息を抜いて、ゆっくり休めよ。
穏やかに眠る日向の横顔に、慈しみというか労いというか、そんな感情が湧いてきて、そのまま寝かせておいてあげることにした。
「ふふ……ふふふっ……」
日向の口からいきなり笑い声が出て、ドックンと鼓動が跳ねた。もしかしたら起きているのかと思ったけれど、どうやらそうではない様子だ。
何か楽しい夢を見ているのだろうか。今日の出来事を夢で見ているのだろうか。
──もしもそうなら、日向が今日のK市での一日を、心から楽しんでくれていたという証と言えるかも……
でも俺も日向のおかげで凄く楽しい一日を過ごすことができた。
「日向、ありがとうな」
起こさないように、日向に聞こえるか聞こえないかの小声でそう呟いた。
俺の肩に頭を預けて、スースーと可愛らしい寝息を立てる日向の横顔を、俺はそんなふうに思いながら、いつまでも飽きることなく眺めていた。
「ごめんねー祐也君。ついつい寝ちゃった」
電車を降りる寸前に俺が肩を揺するまで寝ていた日向は、電車から降りてからも恐縮し切って、顔の前で手を合わせている。
「いいよ。疲れてるんだろうなと思って起こさなかった」
「あ……ありがとう。でもせっかく二人でいるのに、一人だけ寝るなんて祐也君に悪いなぁ」
「大丈夫だって。気にするな」
「あ……うん……」
俺たちが朝に待ち合わせたターミナル駅で電車を降りて、ここからはそれぞれ違う路線に乗って家に帰る。
だから日向とはここでお別れだ。
「あの……えっと……」
日向はなぜか眉尻を下げてもじもじしている。いったいどうしたのだろうか?
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