【31:春野日向は名前呼びを勧める】
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土曜日は朝からずっと、日向の特訓をどうしようか、どうしたら料理上手に見えるだろうかと、作戦を考えていた。
もちろんそれまでにも色々と考えてはいたのだけれども、これという案が思いついていなかった。
包丁使い以外では、何をどうトレーニングしたらいいのか……
調理実習のメニューがわかれば対策も立てやすいのだけれども、日向はメニューはわからないと言っていた。
そうするとどんなメニューがきても役立つことを中心に鍛えざるを得ない。
つまり料理の基本中の基本を教えることと、他になにができるだろうか?
しかも教えることができるのは、あと二回しかない。
本当に料理が上手になる必要はないけれど、料理が上手に見えるようにするためには……?
──うーん……なかなか厄介な命題だな。
これという決め手になることは、やっぱりなかなか思い浮かばない。
それでもいくつかの練習案を考えて、日向がやって来る夕方を迎えた。
いつもより10分ほど早く身支度を済ませて、料理教室への扉を開く。
室内を見回すと、女子大生の二人は既に来ていたけれども、日向の姿はまだない。
俺の姿を見て、母がちょっと驚いたように声をかけてきた。
「あら、珍しい。早く来たのね」
「え? ああ、暇だったからな」
「ふーん……」
母はニヤニヤしながら、意味ありげに呟く。何が言いたいんだ?
「日向ちゃんなら、まだ来てないよ」
「あ、ああ。見りゃわかるよ。それにそんなことは気にしてない」
「ふーん……」
また母がニヤニヤしている。なにか言いたげだけど、母が期待しているようなことは何もない。
俺が日向が来るのを心待ちにしているなんてことはないのだ。俺は強く、そう言いたい。
そうこうしているうちに、がちゃりと教室の扉が開いた。そちらに目を向けると、日向が姿を現した。
彼女がここに来るのはたったの二週間ぶりだけど、ものすごく久しぶりのような気がする。
「こんにちはー!」
明るい笑顔で挨拶して、日向は靴を脱いでスリッパに履き替え、室内に入ってくる。笑顔が輝く相変わらずの美少女っぷりだ。
母は「いらっしゃい」と返事して、さっきと変わらぬニヤニヤ顔で日向に話しかけた。
「待ってたよ。祐也なんか、もうそわそわしちゃってさ」
「えっ? そうなんですか?」
「してないよ。由美子先生、あることないこと言わないでくれ」
「はーい」
俺が睨むと母は、ぺろっと舌を出してそそくさと離れて行った。
ホントに困った母だ。
そんなことを日向が本気にしたら、どうするんだよ。
日向はニコニコしながら俺の前を通り過ぎて、部屋の隅にショルダー鞄を下ろす。
そしていつもの花柄ピンクのエプロンと三角巾を付けて、ぱたぱたとスリッパの音を立てて、また俺の目の前に戻ってきた。
日向は俺の髪型と洋食料理人風の講師用衣装をチラチラと交互に見た。なぜだかわからないけれど、よく日向はこの目線の動きをする。
「久しぶりだね、祐也君」
「えっ? 毎日学校で会ってるのに?」
「あっ……そう言えばそうだね。いや、この格好の祐也君が久しぶり……」
日向は「えへへ」という笑いでごまかしている。
──そうなんだ。
彼女にとっては俺なんか、学校ではきっと眼中にないのだろう。だから久しぶりだなんて言葉が出たのだと思う。
「じゃあさ、春……いや、ひ、日向ちゃん……」
「あ、呼びにくいなら、春野でいいよ」
「あ、ああ。そうだな。春野……」
「うん」
横の方からコホンと咳払いが聞こえた。見ると母が睨んでいる。言いたいことはわかる。ちゃんと日向って名前で呼べというんだろ。
それってどうなんだよ。ホントに本人が望んでいることなのか?
一応本人に確認するのが一番だと考えた。
「あの……やっぱり名前で呼ばれた方が嬉しいものなのか?」
「いや、祐也君が呼びにくいなら、別にいいよ」
「呼びにくいならいいってことは、ホントは名前呼びがいいって意味にも聞こえるけど……」
「あっ、いや……」
日向はちょっと焦って、両手を顔の前で振って苦笑い。どう見ても図星にしか見えない。
俺も人のことを言えた義理じゃないけれど、春野日向は誤魔化すのが下手だ。
学校ではあんなに完璧なスーパー美少女を装って、慌てるところなんかほとんど見せないくせに、ちょっと不思議なのだけれど。
「わかった。春野がその方がいいって言うなら、やっぱり名前で呼ぶよ」
前回の時は本人の意向は無視する感じで、母が無理矢理俺に名前呼びをさせたような形だった。
確かに日向は、名前呼びは嫌じゃないとか新鮮だとは言った。だけどその方が嬉しいとはひと言も言っていなかった。
だから正直あまり気乗りがしなかったのだけど、春野がそれを望むのならば、ちゃんと名前で呼んだ方がいいと思う。
「ひ、ひな……日向ちゃ、ちゃ、ちゃん。あれ? 日向ちゃ、ちゃ、ちゃん」
日向って名前は、ちゃん付けが難しいな。なんでだろ? 母はうまくそう呼んでたのに。
──なんて戸惑っていたら、日向が苦笑いを浮かべた。
「日向って名前は、ちゃん付けがし難いってよく言われるの。だから『ひなちゃん』か、『ひなた』が多いかな」
「あ、やっぱり。俺が特に不器用って訳じゃないんだ……」
「だね」
「でも呼び捨てなんて、畏れ多すぎる……」
「あ……いいよ、呼び捨てで。別に畏れ多くなんかないし……」
日向はまた顔の前で、手のひらをせわしなくひらひらと横に振っている。
なんだろう……この『呼び捨てをお勧めします』感は? 俺の思い過ごし……か?
「あの……ひなちゃんとひなた。春野はどっちがいいの?」
「あっ……えっと……ひなた……かな」
──なんと。呼び捨ての方がいい……とな?
さっきのは勘違いではなかったんだ。
日向は照れ臭そうに顔を少し伏せて、肩をすくめて上目遣いでポツリとそう呟いた。口を少し尖らせて、頬が赤らんでいる。
その仕草はあまりにも可愛すぎて、破壊力抜群の攻撃だった。俺の心臓は急にドックンと悲鳴を上げて、死んでしまうかと思った。




