【26:春野日向は嫌じゃない】
「俺の方こそ、春野が友達になってくれるなら嬉しい。よろしくお願いします」
俺はそう言いながら、思わず春野に向かって頭を下げていた。
学園のアイドルだからとか、高嶺の花だからとかではなく、春野という人間と友達になりたい──
この料理教室で春野日向という人間の本質に少し触れて、素直にそう思った。
──自分から友達を作るなんて、面倒くさい。
いつもそう思ってた俺なのに。
自分でも……驚いた。
それほど春野は、人として魅力的に見える。
「こちらこそよろしくお願いします、祐也君」
「あ……は、はい、春野……さん」
春野はホッとしたように微笑んでいる。
春野ほどの人気者なら、友達を作るなんて造作もないことだろう。
それどころか春野と友達になりたくてもなれない人が、山ほどいるに違いない。
それなのに俺なんかが友達になってほしいと言っただけで、こんなにホッとして嬉しそうな顔をするなんて。
春野って、なんと謙虚な人間なのだろうか。
「こらこらこら、祐也ー!」
春野が言ってくれた『友達になってもらいたい』って言葉に、せっかく浸っていたのに、横から母が怒ったような声を出した。今度はなんなんだよ?
「日向ちゃんはあんたを祐也君って呼んでくれたんだから、祐也もお返しに『日向ちゃん』って呼ばないと失礼でしょ?」
「いや、いくらなんでもそれは無理だっ!」
なんということを言い出すんだ?
母はもう既に、気軽に日向ちゃんなんて呼んでいるけど、同級生の男子が女子を下の名前で呼ぶのは、また意味が違う。
それこそかなり仲の良い関係じゃないと、名前で呼ぶなんてあり得ないだろう。
それに俺は、今まで同級生の女の子を下の名前で呼んだことなんかないし、恥ずかしすぎる。
「ふーん……」
母はあごに手を添えて、半目で俺をじっと見つめている。いったい何を言いたいんだ?
「あんた、やっぱり日向ちゃんのことを、そこまで友達とは思ってないってことか? だから名前では呼べないと?」
「はぁっ!?」
また母は訳のわからない、ウザいことを言い出した。せっかく春野と友達になれたのに、それをぶち壊すつもりなのか?
俺と母のやり取りを横で見ていた春野は眉を寄せて、かわいそうに困った顔をしている。
「俺はそんなことは言ってない。友達だからと言って、春野は俺みたいな男子に名前を呼ばれるのは嬉しくないだろうから、普通に名字で呼ぶって言ってるんだよ」
俺は母に向かった言ったのだけれど、春野は何かが引っかかったみたいで、横から口を挟んだ。
「あの……祐也君。俺みたいな男子って?」
春野に祐也君と呼ばれて、なぜか背中がぞくぞくとした。もちろん不快なものではない。むず痒いというか、それでいて何か少し心地よい感覚。
「いや、俺みたいな……」
──学園のアイドルには似つかわしくない、平凡で目立たない男子。
その言葉が喉まで出かけたけれど、俺を真剣に見つめる春野に気づいて飲み込んだ。
春野はアイドルと呼ばれるのは嫌だと言っていた。それと俺が自分を卑下するようなことを言うと、きっと春野はまた俺に気を遣ってしまうだろう。
「いや……俺みたいな料理講師に名前で呼ばれたって、春野は嬉しくないだろ?」
「えっ? 料理講師?」
適当な言葉が思い浮かばずに、訳のわからないセリフを吐いてしまった。春野はきょとんとしている。
そりゃそうだろう。言った当本人の俺だって、どういう意味だよと笑ってしまいそうだ。
「えっと……あの……祐也君?」
また春野の呼び名に、背中に心地よい痺れが広がる。なんなのだろうか、この感覚は?
「名前で呼ばれるのが嬉しいかってことに、料理講師かどうかは関係ないよね?」
──そりゃそうだろ!
と、俺自身もついつい心の中でツッコミを入れるが、気づかないふりをして春野に答える。
「えっ? あっ、そうか?」
「そうだよ。祐也君って面白いね」
春野は口に手を当てて、楽しそうにうふふと笑っている。
「あっ、もしかして今のも冗談? さっきの料理界の巨匠に続く、冗談第二弾?」
「あっ……ああ、そ、そうだよ。よくわかったな春野」
「やっぱり冗談かー ふふふ面白い」
なんか……いいふうに取ってくれたな……
「あのね祐也君」
「えっ?」
「私、祐也君に下の名前で呼ばれるの、別に嫌じゃないよ」
春野は少し目を細めて、照れ臭そうにそんなことを言った。
今朝のランキングで、なんとジャンル別週間1位になってました!
ありがとうございます。




