【21:春野日向はお願いする】
春野がこくんと小首を傾げた姿があまりに可憐で、言葉を失ってしまった。
そんな俺を見て、春野は訝しげな声を出す。
「ん? どうしたの? やっぱりそんなお願いは、無茶すぎて秋月君は困っちゃう?」
「あ、いや……そうじゃなくて」
思わず春野に見とれてしまった──なんて言えるはずもない。
そんなことを口にしたら、きっと春野は俺のことを、気持ち悪いヤツだと思うに違いない。
「まあ簡単なことではないけど、春野が真剣に取り組むって言うんなら、俺もがんばらなきゃな……って考えてたんだ」
「そっかぁー! ありがとう! やっぱり秋月君って優しいね!」
「そうでもないさ。普通だろ」
「ううん、そんなことない。優しいよ。それに……」
「それに?」
何か言いにくいことなんだろうか?
春野は少しだけ口ごもったけれど、こほんと一つ咳払いをしてから言葉をつないだ。
「それに、頼りになる!」
「えっ? あっ……そ、そっかなぁ……」
春野はちょっとはにかんで、過大すぎる評価を口にしてくれた。
いや、単なるお世辞だろうとは思うけど……ピンク色に染まった春野の頬が、彼女の言葉の信用性を高めたりなんかもする。
いや、あんまり自意識過剰になってはいけない。
──春野の言葉は単なるお世辞。
そう思っておいた方が、間違いがない。
「じゃあ春野。一ヶ月以内に、春野が料理上手に見えるようにする。それが俺のミッションだな」
「ミッション……かぁ。よろしくお願いします」
春野はそう言って、また頭をぴょこんと下げた。
──さて。
そうは言ってみたものの。
そのミッションを達成するためには、いったいどうしたらいいのか?
「そうすると、だ。普通に初心者コースのプログラムをこなすだけでは、そのミッションは達成できない」
「そ……そうなの?」
「ああ」
さすがに春野が下手すぎるから、とは口が裂けても言えないが、そうなんだよ。
「そのためには、俺が春野に特別に付きっ切りで指導したほうがいいなぁ……」
「あ、いや、それはダメだよ。他の生徒さんに悪いし、私を特別扱いだなんて……」
春野は少し焦ったように、顔の前で両手を左右に振って拒否する態度を示している。
さっき春野は、俺を特別扱いしてくれるようなニュアンスだった。まあ俺の自意識過剰かもしれないけれど。
でもそれが事実だとすれば、やっぱり俺も春野を特別扱いしてでも、特訓してあげるのがお返しってものではないのか、と俺は思う。
──ん?
春野の左手の指に、思わず目が行った。
三本の指に、合計四ヶ所も絆創膏が貼ってある。
前に来たときには、そんなものなかったはずだ。
こんなにたくさん怪我をするなんて、春野ってやつはなんておっちょこちょいな……
──いや、待てよ。もしかして。
「なあ春野。その指の絆創膏は?」
「えっ? いや、な、なんでもないよ」
春野は慌てて両手を後ろに回して、俺の視線から指を隠した。
わざわざ隠すところがかえって怪しい。しかも苦笑いを浮かべているし。
「もしかして、包丁の切り傷か?」
「あ、いや、だ、だから……な、な、な、なんでもないって」
春野はわかりやすいくらい焦って、強張った顔を左右にぷるぷると振っている。
「いや、春野。お前、焦りすぎだろ。そうですって言ってるみたいなもんだぞ」
「あっ……」
春野の動きが急に止まって、ぽかんと口を開けたまま固まった。
せっかくの美少女が台無しの、間抜けな顔になっている。
でも高嶺の花感満載の春野が、こんな無防備な顔を見せるなんて。ちょっとおかしくて、そしてちょっと可愛い。
「そっか、春野。この一週間、包丁使いの練習をしたんだな」
「うっ……うん……」
とうとう観念したのか、顔を真っ赤にした春野は、ちょっとうつむいて上目遣いでコクリとうなずいた。
この子……本気だ。
そして何でも器用にこなすんじゃなくて、春野って子は、ちゃんと努力をしているんだ。
そんな春野の姿に、少し胸が熱くなる。
──そっか。じゃあ俺も、本気で応えなきゃな。
春野を特別扱いしてでも、この子の望みを叶えてあげたい。
俺は自然とそんな気持ちになった。
「春野。ちょっと待っててな」
春野の元を離れ、他の生徒さんと談笑をしている母のところに近づいた。
母にちゃんと事情を話すと、母は俺が春野に付きっきりで指導することを、快く認めてくれた。そして母のアドバイスも聞いて、指導の方針を考えた。
まずは、包丁さばきだな。
調理実習で上手い下手が一番現れるのがこれだ。
料理教室の今日のメニューは、とんかつだ。
付け合せのキャベツの千切りで、包丁使いをとにかくたくさんして、慣れてもらおう。
俺は調理台の横で不安そうな顔をして、つっ立っている春野の元に戻る。
「春野。今日の全員分、つまり春野を含めて四人の生徒さんと、俺と由美子先生の分も合わせた六人分のキャベツの千切りを、全部春野に切ってもらう」
「えっ? ろ、六人分……?」
「だよ。まあなんなら、キャベツならもっとたくさんあるから、十人分くらい切ってくれてもいいけど」
「あ、あっ、と、とりあえず六人分でいいです!」
「あはは、そうだね。とりあえず六人分ね」
「と……とりあえず……?」
「だって春野がそう言ったんだろ?」
「そ……そうだけど……」
春野はちょっと……いや、かなり不安げな表情を浮かべているけれど、兎にも角にもこうやって、俺と春野の特訓はスタートした。




