【2:春野日向は帰りたがる】
超初心者向けの体験料理教室。
その生徒さんの中に、なんと学園のアイドル、春野 日向の姿があった。
白いトレーナーとジーンズという簡素な服装だけど、花柄をあしらったピンクのエプロン姿に、同じ柄の三角巾を頭に巻いた姿が、女の子らしくて滅法可愛い。
だけど──
彼女は成績もスポーツもトップだし、歌やピアノも抜群に上手い。
容姿は芸能人レベルの美しさだし、いつも笑顔で人当たりもいい。
何から何まで完璧にこなす、スーパー美少女である。
だから超初心者コースに彼女の姿を見つけたことが大きな違和感となって、俺は呆然と春野の顔を見つめてしまった。
彼女も俺のその視線に気づいたのだろう。
学校で見かけるのと同じスマイルを浮かべて、「よろしくお願いいたします」と丁寧にお辞儀をした。
「春野……さん?」
「えっ?」
いきなり名前を呼ばれて、彼女は戸惑い混じりの笑顔を浮かべ、小首を傾げた。
一年生で同じクラスだったとは言え、ほとんど話したことがない俺だ。
彼女みたいに人気者で、カーストトップ中のトップという存在からしたら、俺のことがわからないのも当然と言えば当然か。
少し寂しい気もするけど、これが現実ってやつだ。
「一年生で同じクラスだった、秋月だよ」
「秋月……祐也……くん?」
春野は眉尻をさげて、自信無さげな声を出した。
「そうだよ。印象が薄すぎて、わからなかったかな、あはは」
「いや、そうじゃなくて……学校とあまりに印象が違うから……」
春野は大きな目をぱちくりさせて、俺の髪型と服装を交互に見ている。
最初は俺に気を使って言い訳してるのかと思ったけど、真剣な表情と口調を見ると、どうやらそうでもないようだ。
それに俺のフルネームを春野が即答したことに、ちょっとした驚きを覚える。
元々俺のことを知っていて、今日の格好で気がつかなかった……というのは、どうやら本当のようだ。
「秋月君も、料理を習いに来たの?」
「いや、俺は……ここで講師のバイトをしてるんだ。ここは母親が主催する教室だからな」
「こ、講師?」
目を大きく見開いて驚く表情も、さすがの美少女で可愛い。
そして春野は母の方に、チラッと横目をやった。
母は笑顔で、春野にこくんとうなずいている。
「それにしても春野が超初心者コースに来るなんて意外だな。なんでもできるスーパーアイドルかと思ってた」
俺の言葉を聞いて、彼女の顔がさっと強張った。
目を伏せたその顔が、みるみる赤く染まっていく。
「私、帰る」
春野が急に、くるっと踵を返した。
──しまった。
バカにするつもりなんて毛頭なかったけど、彼女はいたくプライドを傷つけられたのかもしれない。
このまま帰られたら、母親にめちゃくちゃ怒られる。
「あっ、待って!」
背を向けた春野に思わず手を伸ばして、彼女の手首を掴んだ。
「ひゃんっ!」
鈴のような可愛らしい声を出して、春野は手をさっと引いた。
そしてこちらに振り向いて、大きくて綺麗な瞳で俺の顔をじっと見つめる。
俺に握られた方の手首を、反対の手で押さえて、大切な物を抱くように胸の所で抱えている。
俺を見つめる目は、怒りなのか戸惑いなのか、あるいはその両方の色を帯びている。
いずれにしても、『コイツ何すんだよ』的な眼差しだ。
──しまった。
いくら焦っていたとは言え、いきなり女の子の手首なんか握ったら、そりゃあ敵意丸出しの視線を向けられても仕方ない。
「あ……ごめん春野。そんなつもりじゃ……」
「こらこら祐也! 何がそんなつもりじゃない、よ?」
母がツカツカと歩み寄ってきて、俺と春野の間に立ち、険しい顔で俺を一瞥した。
そして一転、優しい笑顔を浮かべて、春野に話しかける。
「ごめんねぇ、春野さん。ウチのバカ息子ったら、デリカシーがないもんで。好きでもない男の子に手を握られたら、そりゃ気持ち悪いわよねぇー」
「えっ? いや、そんな……別に気持ち悪いだなんて思っていません」
「そうなの? 遠慮なく本音を言ったらいいよぉー」
こらこら、母よ!
同じ学校の、しかも人気ナンバーワン女子の前で、息子をディスってどうするんだよ?
「いえ、本当に気持ち悪いとかじゃありません。急に手を握られたので、ちょっと驚いただけで……」
確かに春野は、ちょっとオロオロしている。
学校で見かける彼女は、いつも笑顔で自信に満ち溢れて、堂々としている姿しか見たことがない。
あれだけの人気女子だし、男性との交際経験もたくさんあるのだろうと思っていたけど……
案外純情な所もあるのかと、意外に思う。
それとも超初心者コースに参加しているところを知られて、気恥ずかしさによるものかもしれない。
「でもウチの祐也はこう見えて、優しいしホントは紳士的なヤツだから、これからも祐也をよろしくねー」
「あ、はい」
「まあいきなり手を握った後でこんなことを言われても、説得力ゼロだけどねー!」
ああっ、くそっ。
バカ母め。
せっかくフォローしてくれたかと思いきや、また要らんことを言いやがって。
「と、とにかくごめんな春野。悪気はなかったんだ。お前が帰るなんて言うから、つい……二度とこんなことはしないから」
「あ、うん……わかってる」
ちょっと目を伏せて答える春野の頬には、ほんのり赤みが刺している。
本当にこの子、実はめちゃくちゃ純情なのかもしれない。
その恥ずかしそうな表情に、鼓動が跳ね上がった。