【10:春野日向はプッと笑う】
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母にたしなめられて、春野が深々と頭を下げて謝った。だけど春野は別に悪くない。
「あ、いや母さん。俺が悪いんだ。春野を叱らないでくれ」
「だーれーがー母さんだー? 料理教室の時は、由美子先生と呼ぶように、いつも言ってるよねーっ!?」
「あっ、ごめん、由美子先生!」
「あっはっはっ! 素直でよろしい! それと、身を挺して女の子を守ろうっていう祐也のカッコよさに免じて、許してやろうー」
なんだそれ?
春野の前で、俺を持ち上げてくれようとしてるのか?
親バカ丸出しだぞ……このバカ母。
俺が口をポカーンと開けて、どんよりした顔つきをしていたら……今度は俺の顔を見て、春野が口に手を当ててプッと吹き出した。
「んっ? 笑ったな」
俺が春野を睨むと彼女はサッと表情を整えて、「いいえ、笑ってません!」と断言した。
しかしまた下を向いて顔を隠す。
コイツ、うつむいたまま絶対に笑ってるな。だって肩が揺れてるし、うっぷっぷという小さな息が漏れている。
あーあ。
学園のアイドルに笑われちゃったよ。
でもなんだか……
春野が、ほんの少しだけど素の姿を見せてくれることに、ちょっと嬉しい気分になる。
「はい、じゃあ続きをやりましょうねー」
母はそう言って、ぱんぱんと手を叩いた。
春野も「はい」と答えて、いつものような涼しい笑顔に戻り、調理台に向き直る。
そして生徒さん達に丁寧にアドバイスをし始めた母の言葉に耳を傾けた。
母は一人ひとりに身振りを加えながら、作業手順の説明をしている。
他の二人の生徒さんも、母のアドバイスを頷きながら聞いて、更に作業を進めた。
だけど三人とも、あたふたしながら作業をしている。
料理なんて慣れればなんてことはない作業でも、知らないことを一つ一つ確認しながら行なうのは、やっぱり大変だ。
戸惑いながらも真剣な表情で、一生懸命作業をしている生徒さんたちが可愛い。
俺も順番に三人の生徒さんを横から覗いて、いくつかのアドバイスを送る。
春野はなんとか米を炊飯器にセットし終えて、味噌汁の準備に取り掛かった。
「じゃあ春野さん。次はお味噌汁用の野菜を切ってくれるかなー まずはそこにある大根ね」
「あ、はい」
春野は母にそう言われて、調理台に置いてあった大根を左手に持ち、右手で包丁を持ち上げた。そして目の前に包丁を縦に掲げ、黒く光る刃をじっと見つめている。
もしかしたら春野って──
「包丁を使ったこと、ないのか?」
「えっ?」
背中越しに俺が訊くと、春野は驚いた顔でくるっと振り向いた。
しかも手にした包丁を、そのまま顔の前で握ったまま振り向くものだから、俺の目の前に黒くきらりと光る刃が突きつけられた。
「おわっ! やめてくれ!」
「あっ、ご、ごめんっ!」
春野は慌てて包丁を俺の顔から遠ざけたが、危うく、あと数センチで俺の頬に包丁傷が刻まれるところだった。
──さすがに背筋が凍りついた。
超初心者の生徒さんも今まで何人か指導しているけど、こんなに危なっかしいやつは初めてだ。
「なあ春野。包丁使うの初めてか?」
「なっ……なにを言うの、秋月君? そ、そんなわけ、ないでしょ!」
春野は胸を張って笑顔で答えるけど、明らかに顔が引きつってる。
こめかみがぴくぴく動いてるし、唇の端も吊りあがっている。
どこからどう見ても虚勢を張ってるだけだろ。
「なあ春野。ここは料理教室なんだから、できない人が習いに来る所だ。だからやったことがなくても恥ずかしくなんかないぞ。教えるよ」
「あ、いや、秋月君。私だって、さすがに包丁くらい使ったことあるわ。バカにしないでくれるかな?」
包丁使いの基本を教えようと思ったのだけれども、春野は力強くそう言い切った。苦手なら素直に認めて頼ればいいのに、なかなか強情なヤツだ。
彼女は「うん!」とひと言呟くと、包丁を握りしめて調理台に向かった。
あんまり春野のプライドを傷付けるのも良くないかと思って、取り敢えず様子を見ることにした。
まな板の上に大根を置いて、まずは輪切りにする。
だけどその手つきはあまりにたどたどしくて、見ていてハラハラする。
「あっ、痛っ!」
春野は急に叫んで包丁と大根を手放し、左手の人差し指を目の前にして見つめる。
人差し指の腹からは、ツーっと血が線を引くように流れ落ちる。
「ほら、言わんこっちゃない。切っちゃったな」
固まって動かない顔を横から覗き込むと、春野は口をポカンと開けて真っ青になっていた。




