出立
次の日の早朝、朝靄が立ち込める中、ワンロン、トゥバン、ガンザンの三人が旅立とうとしていた。見送りはおばばとユルク、それにガンザンの母親のメリだけ。ほかの一族はすでに朝の仕事で大忙しだ。事情が事情ゆえになるべく早く出発したいというワンロンの意を受けて、大分こぢんまりとした旅立ちになった。旅立つ三人のなかで唯一ガンザンだけが浮かない顔をしている。
「どうしたそんな顔をして。『帰りに笑えるように旅立つ時こそ笑え』と言うだろう。」
ユルクが末っ子に声を掛けた。ガンザンは力無く頷いた。だが表情は変わらない。
「せめてしゃんと背筋を伸ばしなさい。とてもトンクル一族とは思えませんよ。」
メリの言葉にガンザンは背筋を伸ばした。ユルクが頷く。
「うむ。それで良い。……お前は一族の大英雄の名を背負ってる。その名に恥じぬようにな。」
ガンザンの顔が引き締まり、力強く頷いた。トゥバンはそんな親子の様子を眩しそうに見ていた。
「微笑ましいですな。」
ワンロンもトゥバンの隣で温かい目を親子に向けている。
「ああ。ガンザンが羨ましいよ。」
ワンロンがひょいとトゥバンを見ると、その横顔に哀愁が漂っているように見えた。
「母は六年前に楽園に行ったんだ。」
トゥバンがぽつりと呟いた。ワンロンは顔を伏せる。
「……天に幸あれ。」
二人の間に沈黙が流れる。
「おうい、トゥバンや。」
トゥバンが目を向けると、おばばの白濁した目と目があった。おばばは両手でなにやら握りしめている。
「そなたに良いものをやろう。」
おばばの手の中から古びた首飾りが姿を現した。楕円に削った木を十個ほど繋げたなんの変哲もない首飾りだ。おばばは精一杯背伸びして首飾りを掲げている。トゥバンは身を屈めて首飾りを手に取った。近くでよく見てみると、楕円に削られた木の表面に細かい彫刻が施されている。ただ、線が細すぎて意匠までは読み取れない。
「おばば、こりゃ一体なんだ?」
トゥバンがおばばを見ると、おばば不穏な笑みを浮かべた。
「いずれ分かるじゃろうて。肌身離さず持っておきや。」
おばばはそれだけ言ってガンザンの方に歩いていってしまった。トゥバンは言われるがまま首飾りを首に掛けながら呆気にとられた顔でおばばを目で追う。
「ほれほれ!名残惜しかろうが時は止まることを知らぬ。早う行かねば時の流れに乗り遅れるぞ!」
おばばの声にガンザン達が振り向いた。三人頷きあってガンザンがトゥバン達の方に馬を進める。見送るものと見送られるもの、馬に跨がるものと地に足を着けるもの。三対三で向き合った。おばばが声高に旅の無事を祈る呪文を唱え始める。トゥバン達三人は黙ってそれを身に受ける。呪文は高まり静まり数回繰り返した後、ひときわ大きいで朗々《ろうろう》と唱えられ、虚空に消えていった。呪文の残滓すら消えた頃、ユルクがニヤリと笑って声を張った。
「行ってこい!風のように疾く!大地のようにしっかりと進め!」
トゥバン達三人はそれぞれの馬を返し、青い空と緑の大地の狭間に駆け出した。馬の蹄の音がどんどん営地から遠ざかっていく。やがて、それを見守る三人の視界から馬の姿が完全に消えていった。
「……さて」
ユルクが素早く首を捻る。ヒョウッ、と一本の矢がユルクの耳元を通り過ぎて飛んでいった。ユルクがゆっくりと営地に体を向けると、黒ずくめの人形達が営地に迫ってきているのが見えた。ユルクはニヤリと笑う。
「ジェイ、ユル……ハーイェイ!!」
その瞬間、数多の矢が一斉に黒ずくめの人形達に降り注いだ。次々と馬から転げ落ちていく人形達を見てユルクは不敵な笑みを浮かべたまま呟く。
「トンクルを……なめるなよ。」
ガンザンがふっ、と来た道を振り向いた。当然見えるのは緑と青だけだ。不安を煽るような要素はどこにも無い。けれどガンザンは胸騒ぎがしてならなかった。
「ガンザン、どうかしたか?」
トゥバンの声。
「……いや、何でもない。」
とにかく今は前に進まなければならない。ガンザンは頭を振って前を向き、馬の速度を上げる。彼が遥か上方、虚空の中をニヤケた顔した黒い鳥が舞っていることに気付くはずもなかった。




