来訪者
「炎帝国」
それは史上最大の帝国である。かつて、帝国東部「中原」に生まれた貧農の子が天から炎の力を授かったと宣言し、「炎帝国初代皇帝神炎帝」を名乗り、「中原」の大半を支配する一大勢力を築き上げた。それ以来帝国の膨張は止まることを知らず、八代皇帝日炎帝の時代には大陸の半分までをも支配、「四方全てが炎のもの」と言われるまでになった。
それから百二十年余りが経つ。時は第十六代皇帝真炎帝の時代である。「大宮城炎上事件」によって不慮の死を遂げた先代皇帝の後を継いだ彼は、極端な血縁主義をとった。
自らも初代皇帝の血をひく彼は、初代皇帝の血をひくもの、及びその功臣の血をひくものは、どんな無能であっても片っ端から官位に就けたのである。当然のことながら帝国は混乱に陥った。朝令暮改は日常茶飯事となり、重税が課され、賄賂が横行する。結果として、国民は怒り、各地で反乱を起こした。
反乱は時として地域を支配し、軍閥として独自の勢力を築く。真炎帝の治世六年目には、中央政府はそのような反乱の鎮圧にてんてこまいになっていた。これはそんな頃の話である。
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緑の風吹く大草原。そのどこまでも広がる青空の中に、ゲラーと呼ばれる遊牧民のテントが数基纏まって建っていた。季節は夏。ここは大草原に暮らす遊牧民の一部族、トンクル一族の夏営地である。中天に輝く太陽に照らされてキラキラと、子供の笑い声が風に乗って飛んでいる。四、五騎の騎馬がポッカポッカとうろついている。馬上の遊牧民はコックリコックリ船をこいでいる。平和な風景だ。そののどかな風景に、蚊の鳴くような弱々しい呼び声が加わった。黄色い肌の騎手たちの中で、ただ一人浅黒い肌をした騎手がパッと顔をあげ、1基のゲラーに慌てて近付いていく。彼は馬を降りて、ゲラーの戸口を覗き込んだ。
「どうしたおばば。何か困ってるのか。」
呼び声は止み、弱々しい老婆の声が若々しい低めの声に答えた。
「誰じゃ。トゥバンか。ちょっと外に出たいのじゃ。手伝っておくれ。」
トゥバンはゲラーの中に入っていった。薄明かりの中におよおよと手を泳がせている小さな老婆の姿が浮かび上がる。
「おばば。ここだ。」
トゥバンは老婆の手を取った。老婆が両手で彼の腕をまさぐる。
「おお、おお。確かにトゥバンじゃ。ちょっと外まで手を引いてくれぬか。おばばは目が見えぬでな。」
老婆はトゥバンに手を引かれ、戸口を出たところでちょっと立ち止まる。その白濁した目を、まるで世界を眺め回すかのようにぐるりと動かした。
「ついてきやれ。」
老婆はひょいとトゥバンの手を振りほどき、ゲラー群の東に向かってスタスタと歩き出した。突然の行動にたいして驚く様子も見せず、トゥバンが小走りでついていく。その後ろをトゥバンの馬がゆっくりついていく。ゲラー群を出ると、緑と青が広がった。老婆が立ち止まり、おもむろに腕を上げて緑と青の彼方を指差した。
「トゥバン。来客じゃ。」
トゥバンは老婆のしっかりとした指をたどり、目をこらす。吸い込まれそうなほど鮮やかな緑と青の狭間に、確かに何かが見えた。
「……誰か、追われてる。」
老婆が深く頷いた。距離は十里(三キロメートル)ほどだろうか。一騎の騎馬が、黒馬の集団に追われて夏営地に向かってきている。この分だと到着するまでにさほどかからないだろう。
「急いでもてなしの準備をせねばな。」
おばばが呟いて、くるりと身を翻した。トゥバンがハッとして慌ててついていく。
「おばば。一人で大丈夫か?」
おばばはうるさそうに手を振った。
「おばばなら心配要らん。それより男共を呼んできやれ。」
トゥバンは真剣な顔でうなずくと、営地の中央に走っていった。まもなくして敵の来襲を告げる声が営地中に響き渡った。幼子の笑い声が止み、船をこいでいた男達が背筋を伸ばして険しい顔をする。一分も経たないうちに、営地の東外れに十人ほどの戦士が集まった。皆馬上で弓を持ち、正面をじっと見つめている。その目線の先には、古びた鎧を着て馬を駆る大男と、それを追う黒馬に乗った黒ずくめの男達の姿があった。蹄の音が大地を震わせている。
「トゥバンは今年でいくつになる?」
問いに、トゥバンが隣を仰ぎ見る。問いを発した初老の男は、黒馬に追われる大男から目を離さない。彼はトンクル一族の長ユルクである。
「十八。」
「そうか、十八か。」
ユルクは細かいシワだらけの顔に満足げな笑みを浮かべた。
「ならネクーニを任せても良さそうだな。」
トゥバンが目を見開く。
「俺が、ネクーニを?正気か?」
ネクーニというのは草原古語で「初め」という意味で、今では戦いで最初に矢を放つ者を指す。草原ではネクーニの号令が開戦の合図となり、一斉に矢を放つ。ネクーニは馬を走らせながら敵との距離をはかり、弓の射程に入った瞬間に号令をかけなければならない。その責任は非常に重く、『ネクーニの良し悪しが戦の勝敗を分ける』と言われるほどである。当然戦慣れした猛者でなければその役を果たすことは難しく、大抵は三十を過ぎた戦士にしか任されない。それををまだ十八の青年に任せようというのだ。トゥバンがユルクの正気を疑うのも無理はないだろう。
「大丈夫だ。俺は長だぞ。長の決定に文句を言う奴はいないさ。」
ユルクは笑顔を崩さない。トゥバンの眉間にシワがよる。
「いやそういう問題じゃ──」
「ネクーニはトゥバンがやる!それで良いな?」
ユルクがすかさず体を捻って叫んだ。
「「おお!」」
トゥバンは呆れて物も言えない様子。ユルクが楽しげに笑いながらトゥバンの方を向く。
「じゃ、そういうことで。」
「どういうことだよ。」
「大丈夫だ。俺はお前より半年早くネクーニをつとめた。万が一失敗したとしても俺達が何とかする。心配するな。」
トゥバンは眉間にシワを寄せてちょっとユルクを見つめると、ため息をついて馬を前に進めた。視線を前に投げる。大男との距離は、既に三分の一里にまで縮まっていた。その後ろを黒ずくめの集団が追いかける。トゥバンは深呼吸をすると、その黒い目を鋭く光らせ、ゆっくりと弓を構えた。背後の戦士達も弓を構える。大男も黒ずくめの男達もまだトゥバン達に気づいていない。真っ直ぐに夏営地に突進している。
「用意!」
戦士達が一斉に矢をつがえた。トゥバンはそのまましばし距離をはかる。
「引け!」
きしむような音と共に、弓が引き絞られた。大男は既に射程に入っている。黒ずくめの集団が射程に入るまであと僅か。その時、大男がパッと顔を上げた。一瞬、トゥバンは彼と目が合ったような気がした。トゥバンの口角が僅かに上がる。
「伏せてろ!」
空気が震え、黒ずくめの集団が顔を上げた。皆々トゥバン達を指差して慌てている。だが、彼らの馬は慌てることなく忠実に駆けていく。黒ずくめの集団がいくら手綱を引いても、なかなか止まらない。
「放て!」
声と共に矢が一斉に空を切り裂いた。矢は風に揺られながらも真っ直ぐに黒ずくめの集団に吸い込まれて行く。トゥバンの矢が一足先に大男の背の上を通り過ぎて黒ずくめの喉に突き刺さった。黒ずくめの体が馬から転げ落ちる。一瞬遅れて矢が一斉に黒ずくめの集団に降りかかる。櫛の歯が抜けるように一つ、また一つと黒ずくめの体が馬から転げ落ちていく。
集団は大混乱に陥った。
大男を追おうとするもの、その場から逃げようとするもの、立ち往生するもの、それら全てに矢が突き刺さる。ものの三十秒もしないうちに、黒ずくめの集団は壊滅状態となっていた。トゥバンがわずかな生き残りが逃げていくのを眺めていると、突然ドサリと音がした。目をやると、大男が地を這い、体を震わせながら起き上がろうとしていた。慌てて馬から飛び降り大男のそばに寄る。すると大男はトゥバンの顔を鋭く見つめ、
「お迎えに……参りま……した。」
息も絶え絶えに言う。トゥバンは眉をひそめた。なおも起き上がろうとする大男を押し止めようとする。どうしたのかと戦士達が集まってくる。
「動かない方がいい。迎えって?」
「リバン……ザ・ゴルテから……の……迎えです。」
誰かが息を呑む音がした。ユルクが眉をピクリと動かす。大男は必死に震える腕をトゥバンに伸ばして、
「追っ手を……逃が……さな…いで」
大男の目がくるりと白くなった。彼の体から力が抜け、地面に倒れ伏す。トゥバンが素早く草原の方を見ると、逃げ出した黒ずくめの追っ手は既に豆粒のような大きさになっている。
「ジョル、ヤク、追え!」
ユルクの鋭い声に、一際屈強な二人の戦士が駆け出して行き、瞬く間に小さくなっていった。それを見送るユルクの目は険しい。
「リバンザ・ゴルテか。」
ユルクはぽつりと呟いた。