世界の始まり
もう何度こんな日を繰り返しただろうか。
町には避難を呼びかける怒号が飛び交い、空襲警報が鳴り響いている。
飛行機のぶぉーんという耳障りな音が聞こえ、2階の窓から外を眺めてみると、遠くの方で煙と赤い火の粉が見えた。
「ふぅ」
っと息をはき、俺は休んでいた下宿のベッドから身を起こし、必要最低限の荷物をバッグに詰めながら服を着て、数十秒後には建物を飛び出していた。
外に出ると道路には、逃げ惑う市民の群れで溢れかえっている。
そんな中でふと、ある疑念が俺の心の中を揺らいだ。
必死をこいて逃げ回り生き延びたその先に、幸せな未来がやってくるのだろうか?
ただ死にたくないという本能が働いて生きているだけではないのか?
というものだ。
そもそも命の価値ってなんだ?
この疑問に、俺は一つの答えを導き出していた。
それは、「命に価値なんてない」である。
地球上には数多くの生物が生存し、そして死に絶えていく。
その中には、人間の目には見えない微生物や、食べられるためだけに生きるような家畜もいる。
人間はそういった生物の存在をないがしろにし、ぞんざいに扱ってしまうこともあるが、実際にはその生物にも人間と同様の命の価値が割り振られているはずだ。
しかし、人は頑なに自分たちの種にのみ優位性があって、特別な意味があるということを主張し、権威を振りまいている。
宇宙は広大で今現在も膨張し続けていると聞くが、そのスピードからすれば人間なんて微生物も同然であろう。
もしかしたら、人間なんて細胞レベルと認識している巨大な生物が、この宇宙には存在しているかもしれない。
そう考えれば、命の価値なんてものは人間本位な考えで、自分勝手な思い込みに他ならない。
だから、人が死んだところでそこにはなにも生まれない。
つまり、命の価値なんて存在しない。というものだった。
そこで俺は今日、死ぬことにした。
命に価値なんて無い以上、生きようが死のうが、それは本人の意思の自由である。
それが今日であろうが明日であろうが何も変わらない。
そう決心した俺は、人の流れの逆方向へと向かった。
猛スピードで逃げる人々に、時にはぶつかり、または押し戻そうとする街の警官にも出くわしたが、それでも振り切って逆らう方へと歩いた。
それだけ、俺の意志は固かったのだ。
数十分ほど歩いただろうか。
やがて、警報も鳴りやみ、住民の群れもひと段落したところで、開けた広場に出た。
真ん中に噴水があり、街路樹に沿ってベンチが並び、放射状に道が伸びている。
「・・・ん?」
その噴水の前にひとつの人影がある。
よく見ると、白いレースのワンピースを着た、長い綺麗な黒髪を持つ女の後姿である。
不思議に思い近づくと、その女性は驚きもせずに振り返る。
色白な肌に整った鼻、そしてそれに付随するきらびやかな目を持った可憐な女性であったものの、その表情は少し物憂げであった。
「あら、あなたも死ぬことにしたの?まったくおばかさんね」
こちらに物怖じを一切していないような態度で、その女性は言った。
「ああ、命に意味なんて無いしな。」
「そんなことはないわ。命の意味を考えていること自体、それには他の生物と違う意味があって、尊いものなのですよ」
そう彼女が答えた瞬間、空に飛んでいた飛行機から無数の黒い何かが落ちてきた。
それは、空中で瞬く間に分散し、その一つ一つがまっすぐ彼女の方へと向かっていくように見える。
俺はとっさに体が動き、気づいた時には彼女を抱え走っていた。
その瞬間、俺の後ろで凄まじい爆発が起こり、その爆風で俺は抱えた彼女もろとも吹き飛ばされてしまった。
飛んでいる空中で、俺は次第に目の前が真っ白になっていく・・・
「大丈夫・・・?」
気が付くと、俺は広場の芝生の上に横たわっている。どうやら、爆風の衝撃で俺は意識を失っていたらしい。
噴水があった方向は、ただの瓦礫の山になっており、その隙間からは水が流れ、あたりの地面が水浸しになっている。
それだけでも、爆発の規模がどれほど凄いものであったかが分かった。
幸いにも、吹き飛んだ先が芝生であったため、傷はほとんどない。
しかしながら、彼女よりも先に俺が失神してしまっていたというのは、すこし情けなかった。
「木に隠れてるから、もう飛行機から私たちは見えないと思うわ」
そう言うと、確かに飛行機の音が遠ざかっていくように聞こえた。
「ところで、なんでわたしを助けたの・・・?」
そうだ。俺は死ぬためにここに来たのだ。それはおそらく彼女もそうであろう。
にもかかわらず、俺は彼女を助け、自分すらも助かろうと行動していたのだ。
「まだ、会話の途中だったしな・・・」
適当に茶を濁す言い訳をしたが、この矛盾をはらんだ行動には、それとは違う何かが働いているのを、俺は薄々感じ取っていた。
「俺には君の考えが理解できない。では、君の考える命の意味はなんだ?」
「愛・・・かな」
全く予想外のその言葉に、俺は戦慄した。
「ははっ、愛だって?俺たちはそんなもののために生きているというのかね。まったくばかばかしい。」
「あら、そう・・・。じゃあ、もう一度私を助けた理由を深く考えてみてはどうかしら?」
俺が助けた本当の理由。
彼女を初めて見たとき、綺麗な顔立ちをしていながら、それでいて今にも消え入りそうな、儚げで、絶望しきったその表情に、俺は悲しかった。
この世界で、死んでしまうには惜しいと、そう感じたのだ。
つまりどういうことか。
それは、彼女が俺にとって価値のある存在であり、生きていて欲しいと願っていたということだ。
要するに、彼女が美しかったからであるという他ならない。
その感情を「愛」と表現する以外の方法を、俺は知らなかった。
「俺が君を助けたのは、・・・君が美しいと思ったからだ。愛しているからだ!!!」
「ほら、意味があったじゃない」
彼女はそう言いながら、微笑んでいた。