回想
主人公が生まれてから、家を出るまでの回想録。
目の前が真っ赤になって音が消えた。気付くと数人の先生に羽交い締めにされてた。床にはそいつが泣いて倒れ、周りを先生達が取り囲んで騒いでた。彼の両腕が妙に長く、左足の膝がおかしな方向に曲がっているのが虫の死骸みたいで、面白いと思ったから笑った。
それから救急車が来たりひとしきり騒がしかった間、空いてる教室に一人で閉じ込められてた。
頭から血が流れるから、手で抑えて止めようとしたけど止まらなかった。
両手が血だらけになって、床に水溜まりみたいに血が溜まるのをぼんやり見てたらやっと誰かが入ってきて手当てをしてくれた。
その後、親同士で話し合いがあったらしいけど、彼の怪我が完治するものだった事、初めに手を出したのが向こうだった事、自分も椅子で殴られて怪我をしてたことから大きな問題にはならなかったらしいと後から先生達の話を盗み聞きして知った。
その日先生に呼び出されて迎えに来た母親の目は怖かった。車の中では会話は無く、家に着いたところで母親に「お前は人間じゃない」と低い声で吐き捨てられた。
次の日は保育園につれてかれた。他の園児とは別の教室にいれられ、嘘臭い笑顔の女性に色々質問されたり、絵を描かされたりした。それがなんなのか、分かっていなかったけど、思った通りの事を答えてはいけないことだけは分かってた。
夕方、母親が迎えに来た時にその女性が「お子さんはパーソナリティー障害の可能性があります…一度病院で診断を受けてください」と言われたのを覚えている。
次の日は病院につれてかれて色々話を聞かれたり、多分親も話を聞かれていたと思う…したあと、パーソナリティー障害である事は確定診断が出された。
幸い、入院治療は必要ないとのことで薬を貰って普通に返されたけど、帰りの車の中で、母親には「なんでこんな欠陥品に産まれたんだか」と言われ、あとはひたすら罵倒されていたのは覚えてる。
次の日からはまた保育園に通えるようにはなった。
でも父親と母親の態度はそれから変わった。
元々他の家と自分の家は違う事はわかっていた。
周りの子に向けられる親の笑顔やスキンシップみたいなのは存在しなかった。
うちはそういう家で、それは求めたらいけない物だということは幼いながらにわかってた。
それでも普通に会話はするし、一応身内として扱って貰ってた。
でも、それすら無くなった。会話も弾まなくなった。だから、家では少しでも気に入られるよう、必死で笑顔で元気なキャラを作った。ご飯を食べるとき、例え相槌が返ってこなくても気付かないふりをして、面白いことがあったように話して自分でオチをつけ、姉の話しに二人が笑えば、自分も合わせて笑った。
それでも、父親は釣りや山歩きに連れ出してくれるだけマシだった。
姉も両親がいない所では、相変わらず態度が変わらなかっただけ救いだった。
でも、どちらも母親の前では何も言ってくれないし助けてはくれなかった。
次の年、小学校に上がる予定だった僕は、皆とは別の小学校に入学した。
同時に合気道とピアノ、和楽器等を習わされ始めた。
合気道は治療も兼ねての意味合いがあったらしい。
楽器類は母親の意向だった。
学校では総白髪で言わば余所者だった事で弾かれることになった。
でも、悪口やからかいは全て無視して姉の友達や一人で遊ぶ毎日を過ごしてた。
ある日学校に行くと、机の中の教科書がゴミ箱に捨てられていた。
何時もいじめてくる集団のリーダー格の男子がやったことを突き止めて次の日、そいつの教科書や運動着、給食着一式を和式トイレに突っ込みやり返した。
そいつが大袈裟に騒いだ事で問題になりクラス会が開かれた。
僕は先生に「先生は何時も自分がやられて嫌なことはするなっていいますよね。こいつが僕の物を捨てるのは自分がして欲しいからでしょう?だから僕はもっと汚い場所に捨ててやっただけです。いじめとかじゃなくて寧ろ喜ぶ事をしてやったんです」といった。そいつは何も言えず泣いていた。その時以降クラスの雰囲気が変わった。
担任もクラスメイトも遠巻きにするようになった。
母親はこの件で学校に呼び出されたあと、家に帰った時初めて手を上げた。
ピアノの練習中、弾き間違えた瞬間、手に彫刻刀を刺された。一瞬なにをされたのかわからなかったけど痛かった事は覚えてる。
そのあと居間の床に蹴り飛ばされて転んだところを胸ぐら掴まれて引き起こされ、顔をビンタされて再び転ばされた。
そのあとは何度も何度もお腹を蹴られた。少しでも守ろうと体を丸めて泣きながら何度も謝った。
手から出た血で床に水溜まりが出来る頃やっと止めてくれた。
そこで「血で床が汚れたから拭け」と言われて拭いてる最中、ずっと母親は睨み続けているのを感じて顔は上げられなかった。
そのあと父親と姉が帰って来た。
父親は怪我をしてることに気づいてたはずだけど何も言ってくれなかったし母親を咎める事もしなかった。
一週間位して、いじめの主犯格にトイレでカッターで襲われた。
その時も保育園の時のようにぶちのめした。
相手は両腕骨折で、自分はちょっと切られた位だった。
また学校で問題になったけど、そいつは家庭裁判所に行ったらしく。学校には帰って来なかった。
親は呼び出され、話し合いはあった。
当然その日は家に帰ってから、また蹴られて殴られた。
ただ、世間の目も気になったのか見えるところは殴られず、何時も服で隠れるお腹や太ももといった部位ばかり殴られた。
それから、何かと折檻される事は増えた。
特に姉と比べて才能の無いピアノの練習中が多かった。
痛かったし、助けて欲しかった。でも、母親には誰かに言ったら殺すと言われたし、学校に言える相手もいなかった。
それに、養護施設とかにいったらそれはそれで、今みたいな生活は出来なくなることも分かってたから自分からは誰にも言わなかった。
先生の中には気付いてる人もいたと思うけど、教師の間では自分は面倒を起こす子供扱いだったから見て見ぬふりだった。
父親と姉は何時も自分が殴られてるときは見えない振りなのか、目に入ってない感じだった。
そんなでも、母親よりはマシだったから二人とは何もなかったように話したりはしてた。
正確なのは忘れたけど、一年の終わり頃から家事全般が自分の担当になった。
母親曰く「何の才能も無いし、お前みたいな欠陥品はせめて役に立て。」「役に立たないクズを食わせる義理は無い」そうだ。
ただ、夕飯や洗濯…何か失敗したりすると裸にされて殴られて蹴られた後に外に出されて鍵を掛けられた。夏だけだったらまだしも冬もそんな感じだった。
近所に家もないから助けて貰うのは無理だった。
だから死なないために、寒さを防ぐ方法とかは図書館で本を読んで知識を着けた。
ご飯を食べさせてもらえない事もざらだった。
平日は学校で給食が食べられたけど、長期休暇は食べるものがなかった。
だから、虫も食べたし、何でもたべた。
母親は少なくとも父親の前では殴らないだけの理性はあった。
だから、普段は学校から帰ったら夕飯を作ってから母親と二人にならないように外にでた。
父親が帰って来てから家に帰るようにしてた。
家の外に出されたり罵倒されたりするのは父親がいても同じだったけど、直接的な暴力が無いだけましだった。
友達を作る余裕なんてなかった。学年では怖がられてたし、自分自身、人から出来るだけ距離を置きたかった。
基本は図書館にこもっていた。
時々姉が誘ってくれたときに姉の友達と一緒に遊ぶ位だった。
それも姉が卒業してからは無くなった。
六年の時に左目の視力が無くなった。
その日、姉と父親はでかけていて、自分と母親しかいなかった。
自分は母親に監視されながらピアノの練習をしてた。
どうしても上手く弾けず、同じ場所でつっかえる事を繰り返してたら、髪の毛を掴まれてピアノから引き離された。
怒鳴られながら何度か素手で殴られたあと、逆上した母親はフライパンを持ち出してきて頭を何度も何度も殴られた。
「私はもう一人女の子が欲しかったんだ。男なんて産まれてこなくて良かった。なんでお前は男に生まれたんだ」と怒鳴られながら何度も何度も何度も殴られた。
自分は腕で頭を庇いながら謝った「ごめんなさいごめんなさい男に生まれてごめんなさい。だからもうやめてください」途中で意識を失い記憶は無いが、床は血まみれで帰って来た父親が止めるまで殴り続けていたと後でこっそり手当てをしてくれた姉から聞いた。医者には連れていって貰えなかったからわからないけど、多分骨にヒビ位は入ってたし、よく死ななかったと我ながら思った。
父親は止めてはくれたけど、やっぱり怒るでもなくそれだけだった。
後で姉が母親の目を盗んで頭の手当てをしてくれたけど、頭の右側が痛くて左目が霞んでた。
次の日起きると左目は見えなかった。
光は感じるけど、像を結ばずモザイクをかけたように視界はぼやけてた。
其れからも暴力は続いた。
段々、物を使って暴力を振るわれることが増えたから中学生になってからは、死なないため、大きな怪我をしないために必死で合気道の稽古をした。
部活で入った剣道も放課後の練習が長く、家に帰るのが遅くなることと、身を守るのに役立つと思ったから始めた。
お陰で、命に関わる大怪我をするような事は運良く無かったし、副産物的に合気道と剣道の腕も上がった。
中学に入ってからは稽古に精を出した事もあり、合気道の先生と接することが増えた。そのせいか、薄々自分の状況を察してくれ、時々助けてくれるようになった。
自分が家に帰れない時に、泊めてくれたり、怪我の手当てやご飯を食べさせてくれたりした。
親の事も聞き出され、当然、児童相談所への通報もしてくれようとしたけれど、それは自分が断った。そんなでも、何時かはって期待してる所もあったし、高校、大学に行くにはやはり家庭にしがみついてないとっていう汚い計算もあった。
何とか中学を乗りきって、高校に進学した。親は世間体も気にするたちの人間だったから高校に行かせないと言われる可能性はなかった。ただし、大学まで行くこと、それも教育系に進学する事が条件だった。
高校はそこそこの偏差値の隣の市の高校だった。通学に2、3時間かかる程度の遠さだったけど、自分にはそれは嬉しかった。
高校に入ってから、急に背も伸び、親よりも体がでかくなったし、合気道も相変わらず続けていたので、ますます怪我をする事が無くなった。
それでも、自分から抵抗…やり返すのは無理だった。
母親の前では恐怖で自然と抵抗心がなくなるし何も言い返せなくなった。
一方、母親は怪我をしなくなり、泣いて謝ることも無くなった事が、勘に障るらしく、暴力はどんどんエスカレートしていった…時には包丁や刃物を持ち出してくるようにもなった。
何時も母親が激昂して刃物を持ち出し、自分はそれを取り上げて、元の場所に戻してから家を出る感じだった。
そのせいもあって殆ど家に寄り付かなくなった…外で遅くまで勉強し、深夜に家族が寝静まってから家に帰り、シャワーを浴び、着替えをして少し眠り、家族が起き出してくる前に家を出ると言う生活パターンが出来た。
高校三年になって、進路相談もかねた三者面談で初めて親に逆らった。元々教育系の大学に進学する積もりはなかったがそこで、初めて親にそれを伝えた。
当然、家に帰って母親は激怒した。
怒鳴り散らされ、色々な物で殴られながら、もう言うことは聞かないと宣言し、家を出た。
3年の4月から、大学の受験や入学費を稼ぐために学校にも家族にも内緒で夜間の風俗の無料紹介のバイトを始めた。
昼間は学校に行って、夜はバイトをし、朝になったら学校に行くのを繰り返した。
他にも道路工事の短期バイトなんかもやった。
家に帰るのは1週間に一度位、夜中に帰ってすぐに出ていき、基本はバイト先に寝泊まりしていた。
両親とは連絡を取らず、家を出ている姉とだけメールのやり取りはしていた。
受験も終わり、第一志望の大学に合格して、アパートの契約のために父親に一度だけ連絡をした。
父親は黙って来て一緒に契約に行った。
父親が帰るときに、「今日は助かった。もう迷惑はかけないから…」と言ったが何も返ってこなかった。
少し何かを期待してた所もあったからその反応に少しだけ失望はした。
独り暮らしの二日目、部屋を出ると景色が明るい気がした。
今までは比喩じゃなく、常に景色はどっか曇った感じだったけど、少しそれが晴れたような…そこで初めて自由になったと実感した。