89.逃げる少女
「はっ、はっ――」
少女は森の中を駆ける。
森には似つかわしくない赤色のドレスを身に纏い、振り返ることなく真っすぐに進む。
少女――リーゼ・クロイレンは王都を離れて、逃走している身であった。
そんな彼女を先導するのもまた、鎧に身を包んだ少女――フィリスだ。
フィリスがリーゼを気にかけて、隣に並ぶ。
「大丈夫ですか? リーゼ様」
「わたくしを、侮らないでちょうだい……っ! これくらい、何ともありませんわっ!」
「……承知しました。ですが、もう夜も遅い――近くで野営できる場所を探します。リーゼ様はしばしお休みになってください」
「そ、そういうことなら……分かりましたわ」
息を切らしながら、リーゼは足を止める。
フィリスはそそくさと、周囲の探索を始めた。
「……相変わらず、体力がおかしすぎますわ……。おぶったままで行く必要もないというのに」
ポツリとそんなことを呟いて、フィリスを見送る。
リーゼはその場に座り込んで、空を見上げた。
森の中でも、今日は月がしっかりと見える――運は良かったと言える。
途中までは馬車も使っていたが、簡単に足がついてしまう。
フィリスの判断で、リーゼは馬車を捨てて森の中を抜けることにした。
「これが、《王位継承者》なんて、笑わせますわね」
自嘲気味にリーゼが声を漏らす。
ほんの数日前までは、騎士達はリーゼの味方だった。
それが、今では皆がリーゼを追う存在となっている――全てが敵となったのだ。
「……ふう」
木にもたれかかり、小さく息を吐く。
どこまで逃げればいいのだろう――いや、そもそも逃げ切れるのだろうか。
逃げたところで、何かが解決するわけでもないというのに。
リーゼは思考を巡らせる――騎士団長の娘である彼女は、ただ娘というだけではない。
父から戦争についての話を聞き、本を読み進めて、ある程度戦術というものを理解している。
その上で、リーゼの行きつく答えは一つしかない。
「……無理ですわ。わたくしには、万に一つも生き延びる道は、ありませんもの」
俯き加減にそう、リーゼはため息をつく。
いくら思考したところで無駄である。そんなことは、リーゼが一番よく分かっていた。それなのに――
(どうして……)
「――ゼ様?」
「……」
「リーゼ様!」
「っ! な、なんですの。大声で呼ばなくとも分かりますわ」
「いえ、聞こえていらっしゃらないようだったので。丁度良い横穴を見つけました。そこで休みましょう。水場も近くにありますし、追手が来ない限りはしばらくの拠点にしてもいいかもしれません」
「拠点……」
フィリスの言葉を聞いて、繰り返すようにぽつりと呟くリーゼ。
それを見て、フィリスが目を細める。
「……リーゼ様? やはりお気分が優れないのでは」
「そんなことはありません。ちょっと疲れているだけですわ」
「それはお気分が優れないというのでは……」
「とにかく! フィリスが見つけた場所に案内なさい。しばらくはそこに身を隠すことにしましょう」
「承知しました」
フィリスにエスコートされるように、リーゼは森の中を進む。
月明かりしか頼りのない暗い森の中――騎士と貴族の娘は、宛てのない逃走を続けていた。
***
一週間後――ガタン、ガタンと揺れる馬車の中に、シエラはいた。
馬車は数台に分かれて、目的地を目指している。
ここ数日、授業計画を立てた《校外学習》が、遂に始まったのだ。
正確に言えば、校外学習へ向かっている途中ということになるが、シエラにとってはもう始まっているようなものだ。
何せ、出発する前にコウが「校外学習は出発した時から授業だから」と言っていた。
シエラはそれに従っているのだが、授業だからと理解したところで――何かが変わるわけでもない。
ただ、普段以上に静かに馬車に揺られていた。
「……シエラ、気分悪くない? 大丈夫?」
不意に、隣に座っているアルナがそんなことを口にする。
シエラは表情を変えることなく、ちらりとアルナの方を見た。
本当に心配そうな表情でシエラを見ている――シエラは首をかしげながら、問い返した。
「なんで?」
「なんでって……なんていうのかしら。静か、だから?」
「……? 授業中だよ?」
「授業中……? あ、それってフェベル先生が出発前に言っていたこと?」
「うん」
「……律儀に守ることは褒めるべきところなんだろうけど、先生はそういう意味で言ったんじゃない」
「そうなの? じゃあ、どういう意味?」
正面に座るローリィに尋ねる。
ローリィもシエラに問われると、少し渋い顔をして、
「言葉で説明しにくいな……。とにかく、授業だと思って気を引き締めろってことだよ」
「じゃあ、静かにしてるのが正解?」
「正解だけど、そんなに静かにする必要はない。アルナちゃんが余計な心配をするだろ」
「節度を守って行動をしましょう、ってことよ。だから、馬車の中で話すくらいは大丈夫」
「そうなんだ」
アルナにそう言われて、シエラも理解する。
理解はしたが、肝心の『節度』のレベルは理解できない。
実際、周囲のクラスメートは先ほどから談笑を続けている――そのレベルなら許されるのだろう。
鼻の利くシエラは、馬車の隅の方でお菓子を食べている生徒にも気付いていた。
「じゃあ、お菓子も食べていいの?」
「それはダメよ」
「!」
ピシャリ、とアルナに言われてシエラは驚きの表情を浮かべる。
許されるレベルというのは、シエラにとっては理解しがたかった。
(節度……難しい)
「お菓子は到着したらお昼食べるからその後で――って、シエラ? 本当に大丈夫!?」
「アルナちゃん、たぶん考え事しているだけだと思うよ。勉強中とか、こういう顔してるじゃないか」
「言われてみると、そうかも……」
アルナとローリィが、観察するようにシエラを見る。
気付けば無表情だったシエラの表情は、みるみるうちに深刻なものになっていた。
考え事をしていても表情の変わることのなかったシエラが、随分と表情豊かになってきたとも言える。
その悩みが――シエラはお菓子を食べてはいけないのに、他の生徒は食べてもいい状況に関して考えているだけということは、誰も知らない。





