61.微妙な距離感
シエラのテスト勉強は、翌日以降も続けられた。
それは休み時間でも、隣の席のアルナが定期的に問題を出すという反復の方法。
だが、シエラの正答率は相変わらず著しく低い。
思い出そうとしても思い出せないというより、興味のないことはそもそも覚えようとしない。
アルナに言われても、シエラがそもそも勉強に興味を持たなければ意味がない。
《歴史》については、特に《王》に関する事柄はアルナのこともあってか多少興味は持つ。
実際、初代王の名前などは完璧ではないにしろ覚えてはいた。
「ゴルゴン・フェルトスだよね」
「ゴルゴンは伝説上の魔物ね……ゴルドーフ様よ」
それでも微妙に間違えるのはシエラらしい。
そんなシエラとアルナを、少し遠くから見守るローリィの姿があった。
ローリィとシエラが話してから、シエラとアルナとは常に近くにはいても距離を置くようになったローリィ。
一応、勉強を教えるつもりはあるのか、机の上にはいくつか本が積み重なっていた。
ローリィはシエラと違って社交的で、相変わらず執事服のままだが違和感なくクラスメート達と馴染んでいる。
男子よりも女子に人気のあるタイプだ。
中性的な容姿でもイケメンだ、と女子生徒からは評判らしい。
そのローリィが実は女の子である、という事実はシエラしか知らない。
女の子だから、といってシエラが態度を変えることもないのだが。
「ローリィ」
「何か用ですか? シエラさん」
教室で話しかけると、ローリィは微笑んで答える。
誰に対してでもそういう態度で、表向きにはシエラと関わりがあるようには見せないためだろう。
そんなローリィに対して、
「何でそんな敬語なの?」
「僕はいつも通りですが。それよりも、何か用ですか?」
少し語気が強まって、ローリィがまた問いかける。
シエラがローリィの意図を汲めるわけもなく、話し方で距離間が近づいたと思っていたシエラは妙な違和感を覚える。
「今日も勉強教えて」
「アルナお嬢様から教わっているでしょう?」
「ローリィの選ぶ本は面白い」
「あはは、面白いことを言いますね。内容を全く覚えてないでしょう」
「そうだっけ?」
「お前のこと――こほんっ、あなたのことですよ」
シエラと話しているローリィは、時折素が出そうになる。
編入生である二人の微妙な関係は、クラスでも評判だった。
お互いに編入生で、何故かシエラと話す時だけ時折口調が荒くなる――もしかしたら、あの二人はデキているんじゃないか、と。
そんな噂話まで立っているのだ。
「デキている」という言葉をシエラが聞いても、「何が?」という疑問しか沸いてこない。
シエラとローリィで何かを作った記憶がないのだから、当然と言えば当然だ。
シエラにそこまでの知識がないのが最大の原因でもある。
シエラとローリィが話し始めると、やってくるのはアルナだった。
カルトール家に仕える執事と明言しているローリィに、カルトール家の人間であるアルナ。
そして、ローリィとの関係を疑われるシエラの三人の組み合わせは、さらに憶測を加速させる――シエラはそんなことは知る由もなく、
「アルナ、ローリィが勉強教えてくれない」
「一応教えを請う立場ならそういう言い方はよくないわ」
「そうなの?」
「そうよ。ローリィにはローリィの事情があるもの、ね?」
「……そうですね。アルナお嬢様、申し訳ありませんが、シエラさんの勉強のことはお頼みします。僕はこの後用があるので」
「あっ……」
アルナが来ると、ローリィはそそくさと逃げるようにいなくなってしまう。
仲良くなるどころか、以前とは違って距離感は増すばかりだった。
シエラはアルナにローリィと仲良くなってほしいと願い、ローリィの願いはアルナとは今のままの関係でありたいと言う。
そして、アルナの願いは――きっとローリィと仲良くなりたいのだろう。
表情から、シエラはそんなアルナの気持ちを読んでいた。
(どうしたらいいんだろう……)
シエラはまだ、人間関係という大きな壁にぶつかる。
およそシエラが得意としない部分で、頼れるものは父の残した『凡人ノート』しかない。
けれど、ノートにはそんな難しい友達同士の関係性まで解決してくれるようなことは書いていない。
だからこそ、シエラも悩んでいた。
シエラにとっては、そんな友達同士の関係の悩みは初めての経験である。
アルナは大切な友達、そしてローリィとも仲間であり、友達になったばかりだ。
シエラはそう認識している――アルナとローリィが一緒にいたいと思うのなら、その方がいいと思っていてもなかなか関係を進展させられなかった。
ここ最近シエラが考えているのはそのことばかりで、
「それよりも、シエラ。《安寧の女神》の名前は言える?」
「……アルナ?」
「っ、私は女神じゃないわ! イゼルよ、イゼル様! そろそろ覚えて頂戴!」
「分かった」
「絶対分かってないわよね……」
相変わらず、勉強には身が入らないままのシエラを、アルナもまた心配しているようだった。
ふと、シエラは思い立ったように口を開く。
「アルナ……わたし、アイス食べたら覚えられるかも。だから、ローリィも誘っていこう?」
ローリィも、というところがシエラにとっては思いつきにしてはいい考えだった。
だが、アルナはジト目でシエラのことを見る。
問題となるのは、「アイスを食べたら覚えられるかも」という部分である。
「……貴方、いくら何でもその方法で私は騙されないわよ」
「お菓子でもいい」
「じゃあ覚えられなかったらおやつはもう食べたらダメよ?」
「……っ!?」
そんな馬鹿な、という驚きに満ちた表情をシエラは見せる。
おそらく、シエラがもっとも感情を表に出した瞬間だった――それが、こんな当たり前の日常で出ることになるとは、シエラも思わなかっただろう。
***
ローリィは放課後、一人で学園の外へと向かっていた。
目的は一つ、定期的な報告のためだ。
最後に報告を行ったのは、《イゼルの塔》で襲撃を受けた時。
報告の内容は敵についての詳細な情報と護衛の一人であるシエラのことが中心だ。
敵の情報と言っても、《人形使い》であるということ以上に大きな情報があるわけではなかった。
一方で、シエラのことについては「得体の知れない人物であり、実力はあれども警戒が必要な人物」として報告している。
「それでは、今日の報告を聞こうか」
ローブに身を包んだ男がそう切り出す。
ローリィはいつものように学園であったことを話す。
ただ、特別大きな報告があるわけではなかった。
「……」
「どうした?」
「いえ、今回は特に大きな動きはなかったもので」
「そうか」
「ただ……」
「? なんだ」
「シエラ・アルクニスに関してなのですが」
「もう一人の護衛、か」
「はい。以前、得体の知れない、警戒が必要な人物だと報告はしました」
「ああ」
ローリィは視線を泳がせながら、どう表現しようか迷った。
いつもアルナの傍にいて、一人でアルナを守る力のある少女。
そんなシエラに嫉妬しながらも、きっとシエラがいればアルナを守ってくれるという妙な確信もあった。
だから、ローリィは自分を押し殺して報告する。
「得体の知れない人物であることは確か……ですが、信頼はできる、とは思います。ここ数日一緒に過ごして、僕はそう判断しました」
アルナとローリィの仲を、不器用ながらも取り持とうとしているのだ。
そんなことをする必要など、シエラにはないだろう。
勉強など興味のないことには覚えの悪いシエラが、アルナとローリィのことに関しては深く首を突っ込もうとしてくる。
(別に、あいつに感化されたわけじゃない。けれど……肉体的な強さも、心の強さも本物だ。だから、僕がいなくたってきっとアルナお嬢様を守れる)
そんな風にローリィは考えてしまう。
もちろん、アルナを守るという役目を下りるつもりはない。
けれど、シエラさえいればという考えはどこまでもローリィの中から消えることはなかった。
「報告はそれだけ、か?」
「……? そう、ですが」
男の言葉に、妙な違和感を覚える。
どことなくそこにいるのにいないような――言葉には言い表せないような感覚だった。
だが、顔を隠しているとはいえローリィには分かる。
目の前にいるのは、まぎれもなくカルトール家の人間だ。
自身の目に刻まれた《方陣術式》が、その男を主として認めているのだから。
男はゆったりとした動きで背を見せる。
報告だけ聞いていなくなるのはいつものことだ。
「シエラ・アルクニスについて、だが」
「はい」
「奴の本名は、シエラ・ワーカーだ」
「……は? ワーカーって、まさか!?」
ローリィはその言葉を聞いて、シエラの《赤い剣》を思い出す。
塔で見た、人形達を蹂躙するシエラの姿。
どこかおとぎ話にでも出てくるような、そんな印象を与える光景が今も目に浮かぶ。
シエラ・ワーカー――その名前だけで、シエラが《最強の傭兵》と呼ばれるエインズ・ワーカーに関わりがあると理解するのは簡単だった。
ローリィの頭の中で整理が追い付かない。
思い出したのは、シエラの『同じ目的を持つ人とは仲間』という言葉。
彼女は、傭兵だという事実を理解した。
そんなローリィの前に、男が迫る。
「分かるか? あの娘は、嘘をついている。名を偽り、アルナの傍にいるのだ」
「……っ」
「そんな奴に護衛を任せるのか?」
「そ、それは……いや、でも――」
「傭兵がなんの見返りもなくアルナを守るわけが、ない。信用するな」
ローリィの言葉を遮って、男が言う。
男の言葉に、ローリィの心が揺らぐ。
「です、が……シエラがいなければアルナお嬢様を守れなかったのは事実、です」
「ローリィ、アルナについてはこれから、カルトール家が全力で守る、そういう取り決めがなされているところだ」
「……!? そ、それは本当ですか!?」
「ああ」
ローリィにとって、それは願ってもないことだった。
だが、同時に疑問にも思う。
カルトール家はアルナを見捨てている――それは、ローリィにだって分かっていることだ。
今更、アルナを守るために全力で守るなどという言葉の方が、むしろ信用できない。
だが、目の前にいるのはカルトール家の人間。
だからこそ、信用できなくてもその言葉には信頼できるものがある。
そっと、ローリィの頭を撫でるように、男が手を乗せる。
「分かるか、ローリィ。我々にとって、シエラ・ワーカーは邪魔な存在になる可能性が、ある。あの規格外の強さを持った娘は傭兵なのだ。いつ裏切ってもおかしくない」
「……僕に、どうしろって言うんですか」
「簡単なことだ――シエラ・ワーカーを殺せ。近くにいるお前になら、いくらでもチャンスはあるだろう」
「……え?」
――それはローリィにとっても、信じられない命令であった。





